戊午の密勅(読み)ぼごのみっちょく

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「戊午の密勅」の意味・わかりやすい解説

戊午の密勅
ぼごのみっちょく

幕末,安政5 (1858) 年 (戊午の年) 朝廷が水戸前藩主徳川斉昭に下した攘夷の勅諚 (ちょくじょう) 。条約勅許と将軍継嗣をめぐって将軍徳川家定,大老井伊直弼の代表する幕府孝明天皇,関白九条尚忠らの代表する朝廷との関係が悪化すると,一橋派の水戸藩鵜飼吉左衛門知信,薩摩藩士日下部 (くさかべ) 伊三次らは,左大臣近衛忠煕に説いて,斉昭に攘夷の実現をはからせようとした。8月7日水戸藩だけでなく幕府にも勅諚を下すよう朝議が決り,翌8日まず水戸への勅諚が列藩に伝達すべきものとして鵜飼に授けられ,10日には幕府への勅諚も発せられた。幕府では老中間部 (まなべ) 詮勝らが水戸藩に命じてその伝達をおさえ安政の大獄を実行するとともに条約締結の弁疏公武合体の推進のため間部を京都に送った。水戸では,朝廷支持派 (尊王激派,同鎮派) と幕府支持派 (奸派) の対立が起り,翌年朝廷は幕府の要請で水戸藩に勅諚返納沙汰書を出すにいたった。この返納命令はさらに事態を紛糾させ,水戸浪士は桜田門外に井伊を暗殺するところまでエスカレートした (→桜田門外の変 ) 。しかし斉昭が病死し,やがて文久2 (62) 年6月,勅使大原重徳が幕府に公武一致,攘夷貫徹一橋慶喜の将軍補佐の三事の策をさとすため江戸に送られると,老中水野忠精は水戸藩に勅諚の返納ではなくその公表を促し,ともに勅旨を奉承することとなって問題は落着した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「戊午の密勅」の意味・わかりやすい解説

戊午の密勅
ぼごのみっちょく

幕末期の1858年(安政5)8月8日付けで幕府および水戸藩に下された勅諚(ちょくじょう)。戊午は安政(あんせい)5年の干支(えと)で、前例を破って朝廷から水戸藩に内密に伝えられたので「戊午の密勅」という。幕府の将軍継嗣(けいし)問題の決定や安政五か国条約の違勅調印を快く思わなかった孝明(こうめい)天皇は、幕府および水戸藩へ勅諚を下した。水戸藩へは8月7日深夜左大臣近衛忠煕(このえただひろ)から水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)に手交され、諸藩へ伝達せよという添書が付されていた。この異例の勅諚には、条約調印をめぐる幕府の対処の仕方を批判し、水戸藩の攘夷(じょうい)の推進を促していたが、これを知った幕府は、水戸藩に諸藩伝達を禁じた。水戸藩ではこの勅諚伝達の可否をめぐって藩論が分かれ、翌年、朝廷が幕府の求めに応じて勅書返納を沙汰(さた)するに及んで政治問題化した。しかし、この「戊午の密勅」は、天皇の幕府・諸藩に対する政治的所信の最初の公的な表明であり、朝廷が積極的に政治干与の姿勢を示したものとして注目される。また、この勅諚は、大老井伊直弼(なおすけ)をして安政の大獄の弾圧を決意させる一因ともなった。

[田中 彰]

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改訂新版 世界大百科事典 「戊午の密勅」の意味・わかりやすい解説

戊午の密勅 (ぼごのみっちょく)

1858年(安政5)8月8日付で幕府と水戸藩へ出された勅諚。勅許と諸藩との衆議を経ないまま独断で日米修好通商条約に調印した幕府に対して,孝明天皇は譲位を表明し,これをうけた朝議は薩摩,水戸藩士の画策もあって,幕府へ調印を抗議し,諸藩と衆議を尽くすべしとの勅諚を下すことを決した。勅諚は10日に幕府へ下され,また8日には内密に水戸藩へも下された。その副書で勅諚を諸藩へも回達するよう命じていたため,水戸藩ではそれをめぐって藩論が分かれ,幕府は回達禁止を厳命した。徳川斉昭は,幕府が老中を上京させて調印の経過を奏聞すると確約したため,尾張・紀伊両藩へのみ回達するにとどめた。この勅諚降下に尊攘派の画策があるとみた幕府は,安政の大獄を決行するに至った。翌年,朝廷および幕府は水戸藩に勅諚の返納を命じた結果,水戸藩内はいっそう政治対立が深まり,返納反対の藩士らによる大老井伊直弼襲撃を生んだ。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「戊午の密勅」の解説

戊午の密勅
ぼごのみっちょく

幕末期,孝明天皇が常陸国水戸藩に与えた勅書。1858年(安政5)8月,無勅許で日米修好通商条約を締結した幕府に反発した天皇は,幕府牽制のため水戸藩に勅書を下した。ここで天皇は無断調印などを責め,一致協力して外夷にあたることを望み,諸藩への伝達を命じた。これに対して幕府は水戸藩に回達差止めを命じ,返納を要求した。反発した水戸藩士は大挙屯集をくり返し,返納の不当を難じたが,幕府は安政の大獄によって弾圧。59年末,天皇に返納の勅書を出させることに成功した。60年(万延元)水戸藩は返上を決めたが,桜田門外の変がおこり,尊攘論が優勢となったため,62年(文久2)末勅書を公表,奉承ということで決着した。

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世界大百科事典(旧版)内の戊午の密勅の言及

【安政の大獄】より

…1858年(安政5)から翌59年にかけて,大老井伊直弼(なおすけ)が井伊の政治に批判的であった公卿,大名,幕臣,志士などに対しておこなった弾圧。多数の逮捕者と処刑者が出た。
[原因]
 大獄の原因となったのは,将軍継嗣問題条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争である。1853年(嘉永6)に13代将軍となった徳川家定は,このときすでに30歳であったが1人の子女もなく,また政務をとる能力に欠けていた。57年,諸外国との通商開始が避けられないことが明らかとなり,外交折衝についての幕府の指揮や責任が,ますます重要視されはじめると,家定の後見として政務をとりうる将軍継嗣を,速やかに定めるべきであるとの声が高まった。…

【三条実万】より

…徳川斉昭,松平慶永,島津斉彬と結んで将軍継嗣問題では一橋慶喜を推し,また青蓮院宮や近衛忠凞と親しく,幕府が奏請した日米修好通商条約の勅許には,積極的に反対した。さらに同年8月,幕府の条約調印は遺憾である旨を記した水戸藩あての勅諚(戊午の密勅)の降下にも参画した。安政の大獄がはじまると,領地である久世郡上津屋村に身を避け,ついで一条寺の邸宅に移ったが,59年6月,落飾謹慎を命ぜられた。…

※「戊午の密勅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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