幕末における内外の危機に対応して水戸藩士の一部によって展開され,尊王攘夷の観念を打ち出すことによってその後の歴史に大きな影響を及ぼした思想。18世紀末から活躍する藤田幽谷によって基礎がおかれ,弟子の会沢正志斎や子の藤田東湖らによって確立され,彼らの著作や活動,さらには彼らを重用した9代藩主徳川斉昭の声望を通して,藩外にまで影響を与えた。水戸学については,2代藩主徳川光圀が17世紀後半に《大日本史》編纂事業を始めた際に基礎がおかれ(前期),幕末の危機とともに実践的政治論として展開される(後期)という広義のとらえ方のほうが一般的であったといってよい。しかし,この後期だけを水戸学とする説も敗戦前からあり,現在にもある程度広く支持されている。広義の説も認めているように,前期と後期との間には半世紀に及ぶ編纂事業の中断があるだけでなく,歴史編修より政治的実践論へという焦点の移動がある。しかも,前期を担った人々の間にどれだけ思想的まとまりがあるか問題であるし,《大日本史》編纂関係者がすべて後期水戸学の担い手となったわけでもないからである。
藤田幽谷は外からの脅威と内における幕藩体制の弛緩,とくに相互に因果をなす藩財政の窮乏と農村の疲弊を深刻に受け止め,経世に役だたぬ従来の儒学を批判し,儒学を実用の学に建て直すことを通して,その克服に取り組んだ。彼の発言は対外面では危機の鼓吹に,対内面では農本主義的な藩政改革に焦点をおいており,まだまとまったものではなかったが,後に展開する諸要素をほぼすべて含んでいたといってよい。次の会沢正志斎や藤田東湖の世代になると,斉昭(1829年(文政12)襲封)のもとで現実に藩政改革を推進する一方,〈尊王攘夷〉の観念を中心としてその思想を組織化し,それにいわば全国的規模の理論という性格を帯びさせる。ここでは,一系の天皇が存続し忠の道徳が妥当してきた日本の国家体制(〈国体〉)の優秀性を強調しつつ,尊王が説かれるが,天皇-将軍-大名-藩士という各級の者が直接の上位者に忠誠をささげることが不動の前提とされているため,尊王はこの階層秩序を維持しようとすることにほかならない。そうして,それは内のみならず外の危機に対する対応策でもあった。他方,そこでは西洋諸国は卑しむべき夷狄だから接近してきたら打ち払うべきだとして,攘夷が主張される。華夷思想に基づく〈夷狄〉の観念と西洋諸国とを不可分に結びつけ,その打払いを唱道したのは,水戸学が初めである。この攘夷論は軍事的防衛の施策を含みつつも,主眼は幕藩体制の階層秩序を保持するために,キリスト教や平等思想など西洋の思想文物が浸透してくるのを阻止することにあった。水戸学が西洋諸国の強大さを認識しつつも,あえて〈攘夷〉を唱えたのはこのためである。この意味で,それは尊王論と密接不可分の関係にあり,国内秩序を保つために外との接触を制限しようといういわゆる鎖国制度の〈精神〉を,幕末の新状況のもとで再強調したものということができる。
水戸学の尊王攘夷論は幕藩体制の階層秩序を根本的前提としている点で,三家の一つとしての水戸藩の立場が刻印されているが,1839-42年のアヘン戦争とともに軍事的侵略の危機感が武士層に広がると,とくに攘夷論が彼らの間に浸透していく。しかし,ここでは軍事的関心が前面に出るために,攘夷は西洋列強に対する軍事的対抗意識,国家的並立意欲に焦点を移していき,攘夷のためには西洋の情勢の把握,西洋の兵器や科学技術の導入,あるいは日本の対外的膨張が必要だという主張を生み出す。さらに1858年(安政5)の日米通商条約の無勅許調印前後には,攘夷論は列強に対して〈卑屈な〉幕府の対外態度,やがては幕府の存在そのものへの批判という意味を帯びて高揚し,それにつれて尊王論は反幕ないし討幕論として盛り上がる(尊王攘夷運動)。こうして尊王攘夷論は水戸藩の枠を超えて普及するにつれて変化していったが,水戸学の担い手は1853年(嘉永6)のペリー来航時には,表面では〈攘夷〉を主張しつつ実際には〈避戦〉の態度をとり,通商条約調印後になると,幕府による開国を追認するようになる。なお,水戸学は藩内では,幕末の同藩に起こる激烈な党争の重大な原因となった。すなわち,初期にはそれは門閥守旧派の強い反発を招き,1844年(弘化1)には斉昭が隠居を余儀なくされた。ペリー来航とともにそれは一時勢力を盛り返すが,58年以後にはそれ自体が〈激派〉とそれを押さえようとする〈鎮派〉(会沢正志斎ら)に分裂し,鋭い抗争を引き起こすのである。
執筆者:植手 通有
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近世水戸藩に醸成された独得の学風を意味し、その名称は天保(てんぽう)時代(1830~44)から幕末にかけて、「水府(之)学」「天保学」「水戸学」などと、主として水戸藩以外の人々からよばれたもので、広く水戸学の名称が普及したのは明治以後である。水戸学の沿革については種々の説があるが、一般的なものは、2代藩主徳川光圀(みつくに)の修史事業に携わった多くの学者らの間に形成された学風を前期水戸学と称し、9代藩主徳川斉昭(なりあき)の天保期の藩政改革のなかで大成された学風を後期水戸学と称するものである。しかし体系的な独得の学風という点を重視すれば、いわゆる後期の学風を水戸学と称し、前期のそれを水戸学の淵源(えんげん)とすることになる。いずれにしても光圀による修史事業を中心に展開した学風では、歴史尊重と国体観の高揚と尊王賤覇(せんぱ)の思想などに特色がある。後期では、18世紀後半の異国船の接近にみられる西洋諸国の進出と幕藩制の動揺による内憂外患に対する危機意識が、独得の学風形成の根底にあったことは否めない。こうしたなかで水戸学大成の端緒となったのが藤田幽谷(ゆうこく)の国体論と攘夷(じょうい)思想である。それは、斉昭の天保改革を推進した藤田派の会沢正志斎(あいざわせいしさい)や藤田東湖(とうこ)らによって継承発展させられ、斉昭の名で公表された『弘道館記(こうどうかんき)』に結集されたとみられる。幕末の政治運動の支柱とされる尊王攘夷論は、この水戸学の中核をなすものと考えられる。
[瀬谷義彦]
『今井宇三郎・瀬谷義彦・尾藤正英編『日本思想大系 53 水戸学』(1973・岩波書店)』▽『伊東多三郎・尾藤正英・鈴木暎一編「水戸学の発展と尊王攘夷論」(『水戸市史 中巻(三)』所収・1976・水戸市役所)』
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天保学・水府の学とも。江戸時代,水戸藩で形成された学問流派の一つ。藩が独自の学問流派を形成した例は他にない。2代藩主徳川光圀(みつくに)による「大日本史」の編纂過程においてうまれ,3期にわかれる。第1期は1657年(明暦3)史局を江戸駒込に開設してから紀伝の一応の完成をみるまでで,中心は光圀と安積澹泊(あさかたんぱく)。第2期は1786年(天明6)立原翠軒(たちはらすいけん)が彰考館総裁となり,紀伝の補訂が行われるなか藤田幽谷(ゆうこく)や会沢正志斎(せいしさい)らが対内外の政治社会状況の変化に応じ,藩政改革の指導理念や尊王攘夷思想を形象化する時期。第3期は9代藩主斉昭(なりあき)のもとで,第2期に形象化された思想が藩政・幕政の改革理論として実践されていく時期で,中心は斉昭と藤田東湖(とうこ)。狭義にはこの第3期のみを意味することもある。このように水戸学は,時期と担い手によって思想の性格を異にするが,その尊王論や国体論は幕末期の政治思想や近代日本の天皇制イデオロギーの思想的源流として大きな影響を与えた。
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…鎖国論にもさまざまな立場があるが,貿易は日本有益の品と外国無用の品を交換するものだという貿易有害無益論が,キリスト教排斥論とともに,ほぼ共通の前提となっていた(この理論は以前からあった)。 鎖国論のなかで重要なのは,1820‐30年代に完成する水戸学の攘夷論である。西洋諸国は卑しむべき夷狄(いてき)だから,接近してくれば打ち払うべきだという説であるが,この攘夷論の根底にあったのは,西洋諸国の危険をキリスト教やその他の有害思想の浸透といういわば間接侵略に焦点をおいてとらえる見方である。…
…またその反面,歴史・制度学系統の流れが,伝統的な農村共同体の観念に根ざした社稷(しやしよく)の学を掘り起こしていたことも見落としてはならない。また,幕末期の国学がその総体として儒学に逆影響を与え,〈広義の国学を基礎とし国体を宣明し儒学を参酌して〉(徳川斉昭《弘道館記》1838述)という語句にも見られるように,後期水戸学の成立に思想的な刺激をもたらしたことも重要であろう。明治新政権の成立の後,維新変革の実現のために多大なエネルギーを提供していた国学運動はそのはけ口を見失う。…
…攘夷論は鎖国論と結びついて発生したが,やがて西洋列強に並立するための海外膨張論などを生み出し,明治維新前後に華夷思想が解体するのとともに消滅した。 1820‐30年代に確立する水戸学は,西洋諸国は卑しむべき夷狄だから,接近してきたら打ち払うべきだとして,攘夷を創唱した。文化的・倫理的観点から中華と夷狄とを区別する儒教の華夷思想は,江戸時代に広く流通していたものだが,この夷狄の観念と日本に接近してくる西洋諸国とを不可分に結びつけ,その打払いを主張した点に攘夷論の新しさがある。…
…幕末に天皇親政論が出てくることは,これなしには考えられないであろう。 幕末における内外の危機に対応して登場する水戸学は,攘夷を創唱すると同時に尊王と結びつけ,その後の過程で重要な役割を演ずる尊王攘夷の観念を打ち出した。ここでは,儒教の名分論を基礎としつつ国学の理論をもとり入れ,一系の天皇が存続し忠の道徳が妥当してきた日本の国家体制(国体)の優秀性を強調しながら,尊王が以前にないほど強く説かれる。…
…江戸時代の水戸学的な思想の場でつくられた概念。しかし,この合成語が普及したのは近代で,江戸期にはさほど使われてはおらず,水戸学の文献には,必要に応じて諸概念がばらばらに用いられるのが散見できるのみである。…
…制度史に相当する志・表の部の編纂は難航したが,幕末期の豊田天功と明治時代の栗田寛とが中心となって編纂を進め,10志(神祇,氏族,職官,国郡,食貨,礼楽,兵,刑法,陰陽,仏事)と5表(臣連二造,公卿,国郡司,蔵人検非違使,将軍僚属)として完成した。この長年月にわたる編纂事業は,歴史の学問的研究の発展に貢献するとともに,19世紀前半には水戸学とよばれる新しい学風を生み,思想界ならびに現実の政治上に大きな影響を及ぼした点で注目される。【尾藤 正英】。…
…江戸後期の水戸学の代表的な実践活動家。名は彪,東湖は号。…
※「水戸学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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