佐渡村(読み)さどむら

日本歴史地名大系 「佐渡村」の解説

佐渡村
さどむら

[現在地名]鮭川村佐渡

川口かわぐち村の北に位置し、おもな集落は鮭川左岸台地上にある。北部を同川支流沼前ぬままえ川が西流し、耕地は集落の東方台地上や西方崖下の平地に広がる。北は京塚きようづか村、西は真木まき村。吉村本村鑑によれば片岡利兵衛見立の新田で、寛文三年(一六六三)検地が行われた。開発当初は京塚村地内であったが、天和三年(一六八三)には川口村の本畑を、その後川口・京塚両村の畑地を開田したといい、天保郷帳では京塚村の枝郷として扱われる。


佐渡村
さわたりむら

[現在地名]燕市佐渡

小牧こまき村の南に連なり、東流するなかくち川が北に大きく蛇行する地点に位置する。慶長五年(一六〇〇)越後一揆の鎮庄に活躍した小川半右衛門への堀直次書状(新編会津風土記)に「川中嶋左渡」とみえる。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)は高一四九石八斗余とある。同九年幕府領となり、正保国絵図は一八五石余。慶安二年(一六四九)に村上藩領となり、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳は二五〇石四斗余。


佐渡村
さわたりむら

[現在地名]大垣市東町あずまちようなか

東を揖斐いび(佐渡川)が南流し、大垣輪中の東部に位置する。西は小野この村。村内を東西に美濃路が通り、揖斐川の対岸西結にしむすぶ(現安八郡安八町)との間に佐渡渡がある。「新撰美濃志」によれば、佐渡さどを「今はサワタリと呼ベリ」と記し、「源平盛衰記」「平治物語」などにみえる佐渡左衛門尉重実・佐渡式部大輔重成や、「吾妻鏡」文治六年(一一九〇)四月四日条にみえる公領を押領したとされる美濃国内地頭佐渡前司重隆などを、いずれも当地の者と推定している。


佐渡村
さわたりむら

[現在地名]熊野市飛鳥あすか町佐渡

野口のぐち村の南にあり、大又おおまた川に沿う。永徳二年(一三八二)二月二五日の先達職補任状案(米良文書)に「先達職者、奥嶋寺佐渡阿闍梨房良祐」と記される。慶長六年(一六〇一)検地帳(徳川林政史蔵)に「佐渡村」とあり、近世初期の家数二三(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)。「紀伊続風土記」に「川流に丸木橋を架して木本浦往来に便す、村名は此谷川の小橋より起れり、狭渡の義なるへし」とある。新田畑の開発に関して、元禄一〇年(一六九七)から寛延年間(一七四八―五一)にかけての史料が残っている(「奥熊野佐渡村新田検地帳」徳川林政史蔵など)


佐渡村
さわたりむら

[現在地名]可児市久々利くくり

久々利村本郷の北にある。久々利七郷の一。慶長郷帳などには久々利村として一括記載され、尾張藩領。寛永年間(一六二四―四四)の御両家并九人衆高概免覚書(西山文書)に佐渡村とみえ、高二〇〇石、山村三得の給地。「士林泝(蓬左文庫蔵)によれば、三得の子三一が寛文八年(一六六八)同輩千村重名と争論し殺されたため、尾張藩蔵入地となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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