日本歴史地名大系 「倉村」の解説 倉村あしくらむら 山梨県:中巨摩郡芦安村倉村[現在地名]芦安村芦倉甘利(あまり)山・千頭星(せんとうほし)山・大崖頭(おおがれあたま)山・高谷(たかたに)山・櫛形(くしがた)山に囲まれた御勅使(みだい)川渓谷の北岸に位置し、東は駒場(こまば)村(現白根町)、南は安通(あんつう)村と奈良田(ならだ)村(現早川町)。名取将監は当地に居住し、武田信玄に仕えたという(寛永諸家系図伝)。将監との関係は不明だが、名執(名取)清三は天正一〇年(一五八二)八月一七日、「足蔵分」一貫五〇文ほかを安堵されている(「徳川家印判状」名取宏家文書)。慶長七年(一六〇二)の検地帳(県立図書館蔵)では上畑一反余・中畑一反余・下畑一町余・下々畑八反余、屋敷五九四坪、ほかに桑三八束。慶長古高帳では高三一石余、幕府領、ほかに大明神領九斗。寛文一二年(一六七二)の検地帳(県立図書館蔵)では下田五畝余・下々田一畝余、上畑五反余・中畑一町一反余・下畑二町余・下々畑三町三反余・山畑二町六反余・山下畑六町八反余、屋敷四反余で、高七二石余、ほかに除地として大宝(だいほう)寺屋敷・畑、光明(こうみよう)寺・地窪堂・御願堂・阿弥陀堂・天神・牛頭天王・山神の屋敷、大明神領の畑があった。 倉村くらむら 福島県:南会津郡下郷町倉村[現在地名]下郷町豊成(とよなり)上添(わそう)村の南、阿賀川左岸の段丘と山間に立地。大岩(おおいわ)山山頂に大岩城跡がある。下野街道が通り、阿賀川を渡り長野(ながの)村(現田島町)に通ずる。南山御蔵入領楢原組に属する。寛永年間(一六二四―四四)の倉村年貢割付状(星家文書)によると高二三五石余。貞享二年(一六八五)の「楢原郷地下風俗覚書」では高二三八石余。うち一一四石余の年貢は長野村に渡る丸木橋の橋守を岩本(いわもと)村とともに分担、その人足役として延宝元年(一六七三)から免除されていた。洪水によりこの橋が落ちた時は、打舟を作り対岸より綱を張り往還の荷物を運送した。橋の修復には下郷・上郷諸村から人足が出た。元禄四年(一六九一)の万覚書帳(下郷町史資料集)では高二三九石余、反別田五町五反余・畑三六町六反余、家数五八・竈数六六、うち水呑・名子九、人数三二七、馬三六。 倉村あしくらむら 岐阜県:大野郡白川村倉村[現在地名]白川村芦倉庄(しよう)川右岸芦倉山(一一二三・八メートル)山麓にある。南は有家(うけ)ヶ原(はら)村、対岸は椿原(つばきはら)村で、三村を山家(やまが)とよぶ。倉は久良の借字で谷のことで、蘆の生えた谷の意味という(斐太後風土記)。金森氏時代の高は二八石余(飛騨国中案内)。元禄飛騨国検地反歩帳の高は一〇石余、田八畝余・畑三町五反余。元禄一〇年(一六九七)再び高山別院照蓮(しようれん)寺(現高山市)領となり、のち幕府領分一石余が加わった(「岐阜県史」など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by