倉賀野河岸(読み)くらがのがし

日本歴史地名大系 「倉賀野河岸」の解説

倉賀野河岸
くらがのがし

[現在地名]高崎市倉賀野町

利根川筋としては最上流に位置していた河岸で、利根川の一支流からす川の左岸段丘上に設置されていた。倉賀野は中山道の宿場でかつ日光例幣使街道起点でもあり、江戸と上信越地方、中山道筋一帯とを結ぶ物資の集散地として、利根川上流では最も重要な河岸として繁栄した。

〔開設期〕

河岸の成立年代ははっきりしない。慶安三年(一六五〇)のかゝり船荷物詫手形写(須賀文書)に「毎年より上方信州其外方々より新かし迄出シ申候荷物」とあって、「新かし」が存在していたことが知られる。文化二年(一八〇五)の覚書(同文書)にも慶安年中より川船渡世を始めたとある。しかし明和八年(一七七一)の河岸概況口書(同文書)によると、須賀家は慶長年間(一五九六―一六一五)から運送業を始めたという。いずれにしても江戸時代初期には河岸が開設されていたと考えられる。当初は諸藩・旗本年貢米輸送のための廻米河岸であったらしく、元禄三年(一六九〇)と考えられる諸大名御城米宿覚(「沿岸図所調中雑記」同文書)には当河岸を利用した上信の大名・旗本二三氏が名を連ねる。穀物以外の船積みについては、下流の玉村たまむら宿(現佐波郡玉村町)との紛争の種となった。玉村宿は日光例幣使街道の最初の宿駅で、烏川のしん河岸・川井かわい河岸(現同上)を控え、佐渡奉行街道も通る交通の要地であった。慶安三年には当河岸で荷を積出すところを玉村宿の者に差押えられ、詫びを入れている(前掲詫手形写)。この後も穀荷以外を扱ったため度々紛争があり、玉村宿側は倉賀野河岸は米と大豆の取扱に限定するよう訴え、倉賀野側は地理的関係で三国通筋の荷は玉村扱いとして認めることになった。しかし玉村宿側は角淵つのぶち河原(現玉村町)に押出して倉賀野からの下り船を取押え、手形を奪ったりしている(元禄四年「荷物馬次船立出入訴状」須賀文書)。元禄四年当河岸は一般の荷物の船積みを公認され(「烏川通船出入裁許証文」同文書)、上信越一帯を後背地とする河岸として発展した。享保九年(一七二四)武家御米宿覚(沿岸図所調中雑記)では当河岸を利用する大名・旗本の数は四三に増加し、扱う米の量は約五万七千俵にもなっている。

〔発展と機構〕

河岸の船積問屋は、貞享二年(一六八五)には一〇軒(「船積問屋勤方議定」須賀文書)、元禄四年には八軒(前掲出入訴状)、享保九年には一〇軒(前掲武家御米宿覚)、安永四年(一七七五)には九軒(「一四ヵ河岸組合船問屋規定証文」須賀文書)、天保四年(一八三三)には一二軒(「一四ヵ河岸問屋出入済口証文并議定」同文書)、嘉永三年(一八五〇)には六軒あった(「為替仲間議定之事」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報