元禄俳諧(読み)げんろくはいかい

改訂新版 世界大百科事典 「元禄俳諧」の意味・わかりやすい解説

元禄俳諧 (げんろくはいかい)

江戸元禄期に行われた俳諧俳風総称。“心付(こころづけ)”“景気付”を主体とする優美な俳風が基調をなした。それは,談林風の無心異体がゆきづまったとき,それを克服すべく俳壇全体が試行錯誤を繰り返した結果いたり着いた有心(うしん)の正風体で,その意味では,貞門風→談林風→元禄風は俳諧史のたどる必然的なコースだったといえよう。ただし一口に元禄風とは言っても,その内容はさまざまで,1691年(元禄4)刊《祇園拾遺物語》によると,〈詞さへ巧みに利口なれば,心浅くてもよき点するあり。詞は賤しくて唱へ悪しけれど,心の味あるを好く人あり。詞古くても,前句へよく付くことを好むあり。言を巧みにするにもあらず,よく付くにもあらず,ひんとして風流なるをよしとするあり(略)重き句を好くあれば,軽きをよしとする人あり。句ごと儒仏におとすあれば,詩の詞をとり,歌にかゝはるを好くあり。面々各々の好む〉俳風が行われていたのであって,この風調の先頭を切った芭蕉らの蕉風俳諧といえども,元禄風の一体にすぎなかったのである。俳壇的にみても,貞徳,宗因をそれぞれ頂点としてピラミッド型に構成されていた貞門,談林の俳壇とはちがい,全俳壇を統率する人物を欠き,群雄割拠の様相を呈していた。91年刊《誹諧京羽二重(きようはぶたえ)》(林鴻編)には,京だけでも67人の〈俳諧点者〉,356人の〈俳諧師〉の名が挙げられ,芭蕉もその〈俳諧師〉の一人として登録されるにすぎなかった。

 元禄期に出版された俳書のうち,貞門・談林系の撰集に芭蕉や蕉門俳人の句が掲載され,また逆に蕉門の撰集に貞門・談林系俳人の句が採用されることもしばしばで,このことは,流派によっては色分けのできない,いわば元禄趣味の風調が,元禄俳諧の基層部に存在したことを物語る。それは主観的な色どりの濃い風流志向であり,いやみに流れると〈かゝる世は蝶かしましき羽音かな 信徳〉(和及編《雀の森》1690),〈御代の春蚊屋の萌黄にきはまりぬ 越人〉(元禄4年歳旦(さいたん)帳)などになり,詩的に結晶すると〈凩(こがらし)の果はありけり海の音 言水(ごんすい)〉(言水編《新撰都曲(みやこぶり)》1690),〈うぐひすの細脛よりやこぼれむめ 才麿〉(文十編《よるひる》1691)や,芭蕉らの数々の佳吟となった。連句付合(つけあい)では“疎句(そく)”が重んじられ,心や景気による“うつり”が中心となり,蕉風の“匂ひ”“響き”“走り”など隠微な付合の呼吸を生み育てたが,井原西鶴らはこれを連歌への回帰とみて理解を示さず,故事・古典のことばや縁語を“あしらひ”とする“親句(しんく)”の俳諧に終始した。元禄末年になると,疎句化の傾向はますます進み,“前句付(まえくづけ)”の流行とあいまって,付合の疎外を招き,一句立て偏重の思想を育て,やがて連句を解体へと導くに至るのである。
談林俳諧
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の元禄俳諧の言及

【蕉風俳諧】より

… 貞門,談林の宗匠たちは,連歌のパロディである俳諧に興じながらも,余技の意識を払拭しきれなかった。蕉風に代表される元禄俳諧は,その世代の門下から俳諧のみを本技として出発した世代が大成する時期の所産である。それは,談林俳諧の〈無心所着体〉に対する〈有心(うしん)正風体〉(正風)の復活という形をとるため,大坂を本拠とする談林派が,貞門に捨象された〈守武(もりたけ)流〉によりどころを求めた歴史の反動として,京・江戸の旧貞門系有志俳人が連係して貞門流にみずからの血統を求めたようにもみられる。…

※「元禄俳諧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android