俳諧の宗匠。《江戸鹿子》(1687)などの地誌類に諸師諸芸または諸職の一つとして登録されている。《人倫訓蒙図彙》(1690)は能芸部にあげて,俳諧の法式が貞徳,立圃(りゆうほ)に始まることを述べ,〈その流れを汲みて棟梁する者を点者と号す〉というが,《誹諧京羽二重》(1691)では点者,俳諧師,作者を区別している。広義には点者をふくみ,狭義には点者を除く職業俳人をいうか。それに対して,アマチュアの俳人を作者という。俳諧師は元来,連句の席にのぞみ,式法を正し,かつ興味ある一巻を成就させる指導者の称で,多くは自庵を中心に定例の月並会(月並(つきなみ))を催し,正月には歳旦帳を刊行した。また連句にかぎらず,発句,前句付(まえくづけ)の指導もするようになった。俳諧が大衆化し,地方に普及するに及んでは,文通指導や出張指導が必要となり,前者を業とする者を点者,後者をもっぱらとする者を行脚(あんぎや)俳諧師と呼んだ。点者ははじめは添削料をとって投稿に批点を加えたが,のちには添削をやめて点のみを加え,元禄年間(1688-1704)には,締切日を定めて作品を募り,勝句を板行して勝者に配り,高点句には賞品を出す興行形態が整った。つまり,創作過程指導が既成作品指導となり,点取競技の判定へと進んだ(点取俳諧)。それにつれて,俳諧師の兼業であったのがしだいに点業に比重がかかり,専門の点者の出現となる。点者は乱立を防ぐために認可制をとり,享保年中(1716-36)に,京都では官庁に定数を届け,江戸では点者組合を組織し,同業者の認可を得るための万句合興行が開業の条件となった。行脚俳諧師も結社の組織を地方へ拡充し,伝書の授受と撰集活動で組織を固めた。撰集活動は,門下に奨めて積極的にこれを後見するケースと,芭蕉の年忌などに広く献詠を募って入句料をとるケースとがあった。
執筆者:白石 悌三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
高浜虚子(きょし)の長編小説。1908年(明治41)2月18日より7月28日まで『国民新聞』に連載。09年1月民友社刊。初心は小説にあった虚子は明治30年代後半写生文より小説に熱中したが、短編集『鶏頭』(1908)出版後の初めての長編。主人公塀和(はわ)三蔵に託した自伝性の濃い青春小説。俳句に熱中した京都の高校時代、東京より来遊する俳人たち、上京後の女義太夫(ぎだゆう)へのあこがれなど、正岡子規(しき)、内藤鳴雪(めいせつ)、藤野古白、新海非風、五百木飄亭(いおぎひょうてい)、竹本小土佐らをモデルにした。原作は90回本。女義太夫への痴情部分を除いた改訂の78回本もあるが、原作本が優れている。
[福田清人]
『『定本高浜虚子全集5』(1974・毎日新聞社)』
俳諧の師匠。近世では連句形式をとった俳諧の連歌が盛んで,その連句の席で指導者の役割をはたした。また,作品のよしあしに応じた評価を下す点者としての活動や,懸賞で作品を募集し勝敗を競う興行行為も行った。江戸では点者の組合も結成された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
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