改訂新版 世界大百科事典 「蕉風俳諧」の意味・わかりやすい解説
蕉風俳諧 (しょうふうはいかい)
蕉風とは芭蕉によって主導された蕉門の俳風をいうが,それが,貞門時代,談林時代に次ぐ時代の俳風をいう俳諧史用語としても一般に通用している。貞門風(貞門俳諧),談林風(談林俳諧)に対して蕉風はたしかに異質であり,それが元禄期(1688-1704)の俳風を質的に代表していることも認められるが,一般の俳風が芭蕉によって主導されたとみることは妥当でない。たとえば,蕉門の代表撰集《猿蓑》(1691)の刊行された時点で,俳壇に占める蕉門の勢力は1割強にすぎず,出版点数もまたそれに見合っている。まして点業をみずから廃止し,門下にもきびしく制限した芭蕉の影響力が,俳壇の趨勢を左右しえたとは考えにくい。芭蕉に限らず,当時の俳壇には,かつての貞徳や宗因のように三都に影響力を行使できるほどの大物は存在しなかった。にもかかわらず,俳諧史が貞享年間(1684-88)を境に一変するのは,歴史的必然というほかなく,その上に芭蕉の才能が花開いたのであって,一人の才能が歴史を主導したのではない。
貞門,談林の宗匠たちは,連歌のパロディである俳諧に興じながらも,余技の意識を払拭しきれなかった。蕉風に代表される元禄俳諧は,その世代の門下から俳諧のみを本技として出発した世代が大成する時期の所産である。それは,談林俳諧の〈無心所着体〉に対する〈有心(うしん)正風体〉(正風)の復活という形をとるため,大坂を本拠とする談林派が,貞門に捨象された〈守武(もりたけ)流〉によりどころを求めた歴史の反動として,京・江戸の旧貞門系有志俳人が連係して貞門流にみずからの血統を求めたようにもみられる。しかし,談林俳諧の洗礼を受けた彼らは,近世的意識に優れ,伝統的素養に劣る点で,もはや貞門とは異質の世代であった。そうした世代交替の進行は,連歌に対する俳諧という相対論をしだいに無力化していく。天和年間(1681-84)に流行した擬漢詩体の俳諧,貞享年間に流行した擬連歌体の俳諧は,雅文脈を俗語でもじる旧来のパロディを試みつくした俳壇が,雅文体めかして俗事を叙する新しいパロディに活路をひらいたものだった。しかし,俳諧とは〈俳諧の連歌〉の略称だから,連歌と〈擬連歌体の連歌〉の違いは,世界を雅に限定するか否かにすぎなくなる。談林時代に,貞門の設けた詩としての許容範囲を超えて俗の世界を開いてきた新世代は,そこで培った現実感覚にもとづいて臆せず雅(みやび)の領域をも侵しはじめた。連歌に疎い新世代だけに,連歌体に擬するというパロディ意識も薄れてゆき,やがては連歌と俳諧は一つに止揚されてしまう。
〈俗語を正す〉ことを課題とし,〈事は鄙俗に及ぶとも懐しくいひとるべし〉と説いた芭蕉も,そうした新世代の一人であった。芭蕉は〈懐しくいひとる〉表現法として,発句(ほつく)に余情を説き,余情の映発によって二句も連なる高次の〈心付(こころづけ)〉を案出した。これは,〈物付(ものづけ)〉から心付へと上達した新世代によって心付が一般となった元禄俳壇においても,高度の名人芸であった。情の直叙ではなく,言外の余情をもっぱらに説く蕉風俳諧は,その前提としてイメージの形象を表現の課題とする。つまり,描写型表現の確立である。高次の心付とは,ロジックによって〈付く〉のではなく,イメージによって〈うつる〉ものという。発句においても取り合わせたイメージの交流する効果を〈行きて帰る心の味〉と称した。なかでも,イメージの交流が単なる映発でなく,互いに否定的契機として働くとき,陰影を帯びた複雑微妙な色合いを生むのを〈さび〉と称した。元禄俳壇には,安易な描写型表現として叙景句が流行したが,蕉風俳諧の理念は景情融合にあった。しかし,景をして言外の情を語らしめる理想は,現実には景に情を託そうとはかる作為的な句作りに落ちやすい。景情融合の句作りを保証するものは表現主体が表現対象と合一する境地であり,合一をもたらすものは〈誠(まこと)〉,妨げるものは私意であるという芭蕉は,誠を責めれば句作りは自然に成ると説いたが,その高度な抽象論を理解し,実践できる者はまれであった。晩年の芭蕉は,私意の介入する余地のないまでに情の表出を抑え,〈軽み〉と称して日常の景を淡々と描き出す作風を唱導したが,そのために浪漫的な香気が失せたことも否めない。〈さび〉と〈軽み〉は蕉風俳諧の不易の相と流行の相であった(不易流行(ふえきりゆうこう))。
蕉風俳諧の初発をいつにみるか,また展開を何段階にとらえるかは,直門の弟子たちの議論にはじまって今日まで諸説ある。いわゆる七部集の連句を例にとっても,《冬の日》(1684)は名古屋蕉門,《ひさご》(1690)は近江蕉門,《猿蓑》は京蕉門,《炭俵》(1694)は後期江戸蕉門の所産で,前期江戸蕉門はもとより,芭蕉とこの変風を終始ともにした門人は皆無といってよい。景情融合の理想は,芭蕉没後,〈軽み〉を継承して景先情後を推し進める支考流と,情先景後に向かう其角流とに分裂し,前者は地方俳壇で平俗化し,後者は都市俳壇で奇矯化の道をたどった。
執筆者:白石 悌三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報