一つの分子あるいは多原子イオンが,その鏡像体と重ね合わすことができないとき,それらはたがいに光学異性体であるといい,この1対を対掌体antipodeと呼ぶ。またこの間の関係を光学異性という。一般には光学異性体は化学的性質および物理的性質は同じであるが,旋光性のみが異なっている。すなわち一方は直線偏光の偏光面を,光の進行方向に相対して見て右側に回転させれば,もう一方は逆に左側へ回転させる。旋光性を有することを光学活性であるという。鏡像体がたがいに重ね合わすことができないための必要にして十分な条件は,対称性からいえば,第一種の対称要素すなわち回転軸はあってもよいが,第二種の対称要素すなわち対称心および対称面(鏡映面)をもたないことである。第二種の対称要素を欠く配置はキラルな配置といい,その配置をキラリティーを有するという。キラルな配置のうち,回転軸をもたない,すなわちまったく対称性をもたないものを無対称あるいは不斉asymmetricな配置といい,回転軸がある場合は不均斉dissymmetricな配置という。たとえば,不斉炭素原子をもつ化合物で,炭素原子の四面体構造を考えると,図1のaおよびbはいずれもすべての対称要素をもたず,不斉な配置であり,たがいに鏡像の関係にある。この状況は,その他の非金属元素(たとえば窒素N,リンP,ヒ素As,硫黄S,セレンSe,テルルTeその他)の原子を中心とする立体配置でも同じであり,さらに各種金属錯体,とくに四面体形4配位,八面体形6配位の場合には[Mabcd],[Mabcdef]などでは中心原子が不斉原子となるため光学異性体が存在する。またたとえば[Co(en)3]3⁺のような金属錯体では,en(エチレンジアミンNH2CH2CH2NH2)の炭素鎖のねじれを無視すれば,図1のcおよびdはいずれも紙面に垂直方向に3回回転軸をもっているが,対称心も対称面ももっていない。したがってキラルな配置すなわち不均斉であり,これらは光学異性体である。
乳酸のように,1個の不斉炭素原子をもつ化合物は1対の光学異性体からなる。一般にn個の不斉炭素をもつ化合物には最大2n個の立体異性体がある。そのおのおのが必ず実像と虚像の関係にある光学異性体をもつので,最大2n⁻1対の光学異性体がある。しかし酒石酸のように分子に対称要素があると立体異性体数は減少し,メソ酒石酸のように光学不活性なものも含まれる(図2)。このように,不斉炭素原子は光学活性をもつための十分条件ではない。J.H.ファント・ホフとJ.A.ル・ベルは光学活性と分子の構造を議論した際,アレンのように不斉炭素のない系でも光学異性がありうることを予言したが,その予言は1936年メートランドP.Maitlandらによって確認された。不斉軸をもつ化合物の一群はそれ以前に発見されている。ジフェン酸は2個のベンゼン環を結ぶ単結合のまわりの回転が立体障害によって阻害されたため生じた不斉である。この種の立体異性はアトロプ異性ともよばれた。
今日の用法によれば不斉炭素をもつ乳酸のような化合物の光学活性は中心性キラリティーの,非対称アレンやジフェン酸のような化合物のそれは軸性キラリティーの,またヘリセンのような化合物のそれは面性キラリティーの存在による(図3)。
1815年フランスの物理学者J.B.ビオはテレビン油のような液体やショウノウ,ショ糖などの溶液が偏光面を回転させる力があることを発見した。21年イギリスの天文学者F.W.ハーシェルは一方の半面像をもつ石英結晶は偏光面をある一方に,もう一方の半面像をもつ結晶は逆方向に回転させることを発見した。48年L.パスツールは光学不活性ブドウ酸は(+)-酒石酸と(-)-酒石酸の等量混合物であることを示し,光学異性の原因が結晶の不斉に限らず分子の不斉にあることを示した。74年オランダのファント・ホフとフランスのル・ベルは独立に,光学活性の原因を炭素の四面体説により,次のように説明した。(1)四価炭素に4種の異なる原子または原子団が結合するしかたは2通りある。(2)この二つはたがいに鏡像関係にある。(3)そのおのおのが異なる旋光性を示す。(4)4種の原子または原子団の2種またはそれ以上が等しいと,2個の分子は重なり合いたがいに区別できなくなる。
光学異性を説明するために提案された炭素の正四面体説は,その誕生に際しては,A.W.H.コルベのような有力な化学者の反対を受けたが,しだいに積み上げられていく実験事実によって反論しがたいものとなっていった。とくに19世紀末E.フィッシャーが糖の立体異性を炭素正四面体説で説明するのに成功して炭素正四面体説の強い支えとなった。
20世紀に入るとA.ウェルナーの配位理論によって,金属錯体でも分子不斉による光学異性の存在することが主張された。そしてついに1911年シス-[CoCl(NH3)(en)2]2⁺で光学異性体が分離されたし,炭素がまったく入っていない光学異性体ということではヘキソール塩[Co{(OH)2Co(NH3)4}3]X6(Xは1価の酸基)ではじめて光学異性体の存在が示され,彼の理論の正しいことが証明された。これらの立体構造は,その後構造解析や量子力学的計算によって理論的にも実験的にも正しいことが明らかにされた。
執筆者:竹内 敬人+中原 勝儼
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
立体異性の一種で、光学活性(旋光性)に差を生ずる異性現象。分子あるいはイオンの構造に第2種の対称要素である転義回転軸(対称心、鏡面、回反軸)がないときに光学活性が現れる。そのような構造の中心を不斉中心とよび、不斉中心にある原子を不斉原子とよぶ。不斉中心があると、右手と左手のように互いに実像と鏡像の関係にある1対の光学異性体を生じ、これらを対掌体antipodeあるいは鏡像体enantiomerまたはエナンチオマーとよぶ。
四面体構造の中心となる炭素原子を例にとると、その4個の置換基がすべて異なるCabcd型の化合物では、その炭素原子が不斉炭素原子となる。対掌体の一方は右旋性(d体、+)、他方は左旋性(l体、-)を示す。不斉原子をもたない化合物から通常の方法で不斉原子をもつ化合物を合成しても、d体とl体の1対1の混合物であるラセミ体しか得られない。
不斉中心がn個ある場合には、2n個の光学異性体と2n-1組の対掌体がありうる。互いに対掌体とはならない光学異性体では、旋光性以外の物理・化学的性質もかなり異なることがあり、このような異性体をジアステレオマーとよぶ。また、複数の不斉中心があるときには、分子構造に第2種対称要素が現れて光学活性を失うことがある。そのような場合を擬不斉といい、鏡像と実像とが重なり合う異性体をメソ形異性体という。
[岩本振武]
通常の化学的性質が同じで,旋光性のみを異にする異性.立体異性の一つ.一般に旋光性の物質には,たとえば乳酸のように,右旋性のD-体と左旋性のL-体の一対の異性体が存在する.その立体化学構造は,実体と鏡像の関係にあり,互いに対掌体(鏡像異性体)といわれる一対の図形によって表される.図の(A)と(B)とは互いに実体と鏡像の関係にあって,重ね合わすことができないから異なる物質を表している.この場合,中心の炭素原子はa,b,c,dの相互に異なる原子または基で囲まれており,不斉炭素原子である.このように1個の不斉炭素原子を分子の中心に有する Cabcd 形の化合物には,一対の対掌体とそのラセミ化合物とがある.しかし,2個の不斉炭素原子がある場合には,Cabc-Ca′b′c′ 形の化合物として4種類の異性体ができるから,二対の対掌体と2個のラセミ化合物ができる.この場合,化学構造が対称的な Cabc-Cabc 形の化合物では,一対の対掌体と1個のラセミ化合物,それに旋光性を失った1個のメソ化合物ができる.光学異性を示す物質は,上記のように,
(1)不斉炭素原子をもつもののほかに,
(2)不斉炭素原子が環構造の一部をなすもの(例:テルペン類,アルカロイド類),
(3)分子不斉によるもの,
(4)四価として化合物中に含まれるN,S,Se,Sn,Si,Pなどの原子が不斉原子となっている化合物,および,
(5)不斉原子が金属である場合の錯体,
にみられる.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…(2)幾何異性 フマル酸とマレイン酸。(3)光学異性 D‐乳酸とL‐乳酸。このうち(2)(3)は原子の配列順序は同一であるが,その空間的関係が異なるものを問題にしており,これらをまとめて立体異性とよぶ。…
※「光学異性」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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