19世紀のイギリスが,その経済力と海軍力を背景にしてとった対ヨーロッパ大陸政策。ウィーン会議(1815)後のイギリスは,〈イギリスの平和Pax Britannica〉を維持するため,大陸諸国間に勢力を均衡させ,自らは大陸の事態から超然として貿易拡大と海外進出に専念した。この孤立政策は,ビスマルクの創出したドイツ,オーストリア,イタリアの三国同盟(1882)とこれに対立する露仏同盟(1891)とが均衡している間は,イギリスの国益に奉仕した。しかし,ヨーロッパ列強の資本主義が次第に発展し,世界各地での帝国主義的対立が激化した19世紀末,イギリスは孤立政策に危険を感じ,同盟政策へと転換する。その第一歩が,1902年の日英同盟であった。さらに中欧でのドイツの強大化やその海軍拡張政策は,英仏協商(1904),英露協商(1907)の締結へと踏み切らせ,イギリスは孤立政策を完全に放棄した。
執筆者:池田 清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
19世紀末のヨーロッパ大陸における三国同盟とロシア・フランス同盟との対立から超然とした立場をとるイギリスの非同盟外交政策をさす。このことばは、初め1896年のカナダ自治領議会での討議で使われて以後、本国の保守党政治家たちから好んで用いられた。それは、イギリスの優越する経済力や海軍力、さらには世界に広がる帝国の固い紐帯(ちゅうたい)に支えられた伝統的政策であり、「いかなる状況にも対応できる行動の自由」を確保するための選択であると論じられた。しかし、20世紀に入り、列強の対立激化とともに、孤立の危険が叫ばれ、ついに1902年の日英同盟、さらに04年のイギリス・フランス協商の締結によって、この政策は放棄された。
[石井摩耶子]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
19世紀後半のイギリス外交政策を自画自賛した言葉。当時のイギリスはその工業力と海軍力を背景にして,他の国とは同盟を結ばず孤立した姿勢をとり,諸国の勢力均衡を図ることによって,国益を守る政策を追求した。世紀末に帝国主義時代に入ると,この姿勢の維持は困難になり,1902年の日英同盟の締結,04年の英仏協商によってその姿勢を放棄した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ドイツ,オーストリア・ハンガリーとイタリアの三国同盟に対抗する内容をもち,フランスは孤立から脱出した。一方,イギリスは〈光栄ある孤立〉を伝統としてきたが,19世紀末には世界各地への列強の進出に直面したうえ,ドイツの三B政策や艦隊拡張計画に遭遇して政策転換をせまられた。1902年,イギリスは極東でのロシアの南下に備えて日本と同盟(日英同盟)に入り,フランスにも接近を試みた。…
※「光栄ある孤立」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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