李朝末期の朝鮮南部で起こった甲午農民戦争の指導者。全羅北道の泰仁で生まれ,古阜に移った。わずかな土地を耕しながら農村子弟の教学に従事していたといわれる。1893年,農民を率いて郡守の暴政に抗議したがいれられず,翌94年2月,郡庁を襲撃した。5月には各地の農民に呼びかけて決起し,農民軍の総大将に推された。彼は東学の地方幹部の地位にあったが,〈地上天国〉の実現という教理を実践的に解釈して蜂起の理念にまで高め,東学の組織を媒体とすることによって反乱の地域的拡大に成功した。農民軍が全州を占領し,6月上旬に全州和約を結んだあとは,全羅道内各地を巡回して農民の手による弊政改革を指導した。日清開戦後,朝鮮が日本軍の占領下におかれると,東学上層幹部の和平論を退けて再蜂起する。しかし,12月初めの公州攻防戦に敗れ,南方に退却して再起を期したものの,密告により日本軍に捕らえられた。翌年4月,ソウルで処刑されたが,日本による侵略・支配のもとで苦しむ民衆のあいだに,〈緑豆将軍〉の愛称で永く語り継がれた。
執筆者:吉野 誠
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朝鮮、李朝(りちょう)末の1894~95年に戦われた甲午(こうご)農民戦争の指導者。地方下級官吏の出身で、郡守の横暴に反抗して殺された父親の仇(あだ)を討ち、また塗炭の苦しみにある農民を救おうとして94年2月全羅道古阜郡衙(こふぐんが)を占領。各地の農民や民族宗教である東学道徒らもこれに呼応して蜂起(ほうき)した。全は輔国(ほこく)安民の布告文、逐滅洋倭(ようわ)、滅尽権貴などの四大綱領を発表し、各地で官軍と戦い、一時は全州を占領した。これに驚いた李朝政府は農民軍に和議を申し入れるとともに清(しん)国に援助を求め、一時休戦状態にあったが、朝鮮に向ける日清両国の利害対立が激化して、同年7月末、日清戦争が始まった。全は9月ふたたび忠清道で蜂起したが、日本軍と政府軍の弾圧で敗退し、12月淳昌で捕らえられて翌95年3月処刑された。
[朴 慶 植]
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1856~95
朝鮮王朝末期に全羅道古阜(こふ)で起きた甲午(こうご)農民戦争の指導者。全羅北道泰仁(たいじん)で出生し,30歳で東学(とうがく)に入教し,古阜接主に任命される。1892年古阜郡守の暴政に抗議し,農民と東学教徒を率いて郡庁を襲撃した。その後,東学の組織を通じて各地の農民に蜂起を呼びかけ,94年には全羅北道全州を占領した。日清戦争開戦後に再蜂起したが,日本軍に捕えられ,ソウルで処刑された。「緑豆(りょくとう)将軍」という愛称で,長らく民衆に語り継がれた。
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…圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動を公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月,全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。彼らはいったん解散したが,政府が参加農民への厳しい弾圧策をとったため,東学組織を通じて各地の農民に檄をとばし,決起を呼びかけた。…
※「全琫準」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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