1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史上もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争をきっかけとして、中国、清(しん)の勢力を排除し朝鮮を支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護の名目で大軍を繰り出し、日清戦争を引き起こした。
当時、朝鮮の民衆は、朝鮮政府の財政危機を取り繕うための重税政策、官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏の罷免、租税の減免を要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである。指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全琫準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府は清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮に侵入してきたのである。朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。
全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかにみえた。ところが、朝鮮に上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮を占領し、親日政府を組織させた。
清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である。日本政府は日清戦争と併行して朝鮮を植民地化する政策を推し進めた。この日本の勢力を追い出すため、朝鮮の農民たちは10月なかばになって再決起した。全琫準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民は20万人を超えたといわれる。日本軍と朝鮮政府軍を相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全琫準は3月末、ソウルで処刑された。
[馬渕貞利]
1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方は開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動を公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月,全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。彼らはいったん解散したが,政府が参加農民への厳しい弾圧策をとったため,東学組織を通じて各地の農民に檄をとばし,決起を呼びかけた。5月初旬,蜂起した農民は全琫準を総大将に金開南,孫化中らと共に数千の陣容を整え,〈逐滅倭夷,尽滅権貴〉の綱領を掲げて政府軍を破りながら全羅道各地を転戦した。同月末に農民軍が全州を占領すると,政府は清国に援兵を要請,日本も出兵の動きをみせた。そこで農民軍は,両国に武力介入の口実を与えないよう,悪質官吏の処罰や身分の平等などを要求する弊政改革案を条件として全州和約を結び,政府軍と休戦した。このあと各郡ごとに執綱所という自治機関を置いて農民自身の手による弊政改革が推進され,全羅道一円には一種の二重権力的な状況が生まれた。だが,出兵した日本が7月下旬には日清戦争をひきおこし,朝鮮が事実上日本軍の占領下におかれると,農民の間には再蜂起の気運が高まった。東学上層部には慎重論も強かったが,全琫準は農民軍数万を率いて北上し,政府および日本の連合軍と対峙した。しかし,最大の山場となった11月下旬から12月上旬にかけての公州攻防戦で,日本軍の近代兵器の前に農民軍は大きな被害を出し,南方に退却して再起を図った全琫準も同年末に捕らえられた。
この事件は従来〈東学党の乱〉と呼ばれてきたが,本質的には反侵略・反封建の農民蜂起であり,敗れたとはいえアジアにおける民衆の反帝国主義闘争の先駆として大きな意義をもっている。
→日清戦争
執筆者:吉野 誠
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東学党(とうがくとう)の乱ともいう。朝鮮王朝の末期,1894年に起こった東学信徒を主とする農民の反乱。東学は西学(キリスト教)に対抗する宗教の意。1860年頃,没落貴族(両班(ヤンバン))出身の崔済愚(さいさいぐ)が,在来の民間信仰をもとに,儒・仏・道3教やキリスト教などを部分的に取り入れて創始した宗教で,「地上天国」の実現を理想とした。政府は東学を邪教として禁止し,64年に崔済愚を処刑したが,その信仰は没落貴族や農民の間に急速に広がっていった。92年になると東学信徒は政府の圧制や外国の経済的侵略に反対して組織的な運動を始めるようになり,94年4月には悪政の改革や日本人および西洋人の駆逐を要求して全国信徒の大集会を開き,内外の注目を集めた。同じ頃,全羅道では全琫準(ぜんほうじゅん)らの東学幹部が中心になって地方官の誅求に苦しむ農民を率いて反乱を起こし,5月末に全州を占領し,さらにソウルに向かって進撃しようとした。政府にはこれを鎮圧する力がなかったので,反徒の要求をいれて極力慰撫する一方,清国に派兵を要請した。これによって清国と日本の出兵となり,日清戦争を引き起こした。一方,東学党は日本の侵略に反対して,10月に全国の農民軍を結集して反撃を試みたが,30万~40万の犠牲者を出して敗退し,鎮定された。
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東学党の乱とも。1894年(甲午の年),朝鮮南部一帯におこった農民反乱。朝鮮では1860年代以降各地に農民反乱がおこり,民衆宗教である東学が全土に広がった。朝鮮政府はこれを禁じて教祖崔済愚(さいせいぐ)を処刑したが,民衆は教祖伸冤(しんえん)の運動をおこし,やがて「斥和洋倡義」を掲げて圧政打破と侵略阻止を唱えた。94年全羅道古阜(こふ)に農民蜂起がおこると,東学の教団組織を通して朝鮮南部一帯に拡大。朝鮮政府は鎮圧のため清国に出兵を求め,日本も対抗して出兵,日清戦争の契機となった。反乱軍は一時解散したが,日本軍が占領を続けたため再び蜂起し,翌年日本軍により鎮圧された。
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…92年から翌年にかけて東学の合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来の非暴力的な教化主義の立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論と対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウルで処刑された。…
…しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会の近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本の侵略の意図に立つ軍事力の行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…
… 朝鮮では王妃の一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏の不正や日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民は分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人の排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府は日本に亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…
※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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