改訂新版 世界大百科事典 「全羅道」の意味・わかりやすい解説
全羅道 (ぜんらどう)
Chǒlla-do
朝鮮半島南西端の地方。朝鮮八道の一つで,湖南地方とも呼ばれる。現在,韓国に属し,行政区域上は南北道と光州広域市に分かれ,人口は全羅北道(道庁所在地は全州)178万,全羅南道(道庁所在地は光州)182万,光州市142万(いずれも2000)。
自然
北東から南西方向へ走る盧嶺山脈と小白山脈を中心とする500mほどの丘陵性山地によって大部分覆われているが,北部には東西50km,南北80kmに達する朝鮮最大の湖南平野,また二つの山脈の間を流れる栄山江流域の羅州平野があり,韓国第一の穀倉地帯とされている。二つの山脈の先端は複雑な沈降海岸地形を形成しながら海へ没し,前面の海上に珍島ほか大小1800弱の島が散在している。潮差は北部の群山港付近では6mをこえ,干潟地が広く発達しているが,南部の木浦(もつぽ)港は1mと小さい。
歴史
李朝初期の八道制施行時には南方海上の済州島も本道の管轄区域としたが,1946年これを分離して済州道に昇格させた。全州が中心地となってきたが,1896年に南北2道に分割され,南は光州が中心地となった。李朝時代には王族の直轄領が広く分布し,その土地を耕作する農民は穀倉地帯に住みながら概して貧しかった。近代に入り,東学思想が広まり,甲午農民戦争(1894)が主に全羅道を舞台に展開されたのも,そのような社会的背景に基づくものと思われる。日本植民地時代にも東洋拓殖株式会社や日本人の大農場が多数設置され,小作農民のあいだで農民運動が盛んであった。独立後の農地改革によって小作農民の大部分は自作農となったが,朝鮮戦争の勃発に伴い,高率の農地税をとられたし,1960年代の工業化においては本道にはほとんど工業投資がなされず,依然として後進地域にとどまった。1980年5月の光州事件の背景には,このような全羅道の政治的・経済的疎外感があったとされている。
地域と産業
韓国第一の米作地帯であるが,養豚などの畜産業も行われている。また北部ではモモやカキ,南部ではナシなどの果樹の主産地となっている。全州一帯の山地はコウゾの産地であり,古くから朝鮮紙の生産が行われてきたが,今日この伝統が群山,全州等の製紙業に伝えられている。海岸一帯は天然の良港に恵まれ,風波のない湾内では貝類,ノリの養殖が盛んに行われている。とくに韓国ノリの大部分は本道で生産され,日本へも輸出されている。また,木浦,麗水などの漁港はグチ,サバなど沿・近海漁業の基地となっている。本道はごく最近まで純農村地域として,製紙,木工品などの伝統的な産業以外にはみるべき工業がなかったが,麗水港に近接した麗川地区に1970年代後半から大規模な石油化学コンビナートの建設が進められ,面目を一新した。内陸の全州,光州にも地方工業団地が造成され,電子,食品,繊維,自動車などの諸工業が発達している。本道に属する多数の島は比較的低平な地形をもち,水田や畑地として利用されているが,水利が悪いため,農業は不安定である。島嶼部では住民の多くは半農半漁の自給的経済を営み,年々人口が減少する過疎化現象が起きている。木浦と麗水が島々との交通の中心地となっている。
執筆者:谷浦 孝雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報