東学(読み)トウガク

デジタル大辞泉 「東学」の意味・読み・例文・類語

とう‐がく【東学】

朝鮮、李朝末に興った新宗教。1860年ごろ崔済愚さいせいぐが、西学すなわち天主教に対抗するものとして、民間信仰の三教を折衷して創始。教義は単純で符呪ふじゅ的であったが、社会不安に動揺する人心に訴えて民衆の間に急速に広まった。甲午こうご農民戦争の後、天道教侍天教に分裂した。

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改訂新版 世界大百科事典 「東学」の意味・わかりやすい解説

東学 (とうがく)

朝鮮の李朝末期におこった民衆宗教。19世紀中葉の朝鮮では,各地に民乱が激発するなど社会不安が増大し,西欧列強の侵略に対する警戒心もアロー戦争(第2次アヘン戦争)での英仏軍の北京占領によって頂点に達した。慶州出身の崔済愚(さいせいぐ)は1860年,こうした内外の危機をのりこえる〈保国安民〉の策として,民間信仰を基礎に儒教,仏教,仙教を取り入れた独自の宗教,東学を創始した。東学とは西学(キリスト教)に対決する東方すなわち朝鮮の学を意味し,欧米人の侵入に備えて剣舞を奨励するなど民族的な自覚の高まりを背景としていた。また,基本宗旨である〈人乃天〉(人すなわち天)の思想は,人間の平等と主体性を求める反封建的な民衆意識を反映するものであった。天とは宇宙万物の本源であるが,人はそれぞれ内に有する神霊なる心の修養につとめることによって天心に感応し,天と融合・一体化することができる。聖賢が天に代わって人々を教え導いた時代が過ぎ去り,東学の創教によって開闢(かいびやく)した後天の世には,天霊の直接降臨により天心一如が実現し,すべての人間が神仙と化した〈地上天国〉の建設が可能であるという。具体的な修養方法は21文字からなる呪文の口誦が中心で,この平易な教えは圧政に苦しむ農民の間に急速に広まった。天との結合の可能性において万人が平等だとする教理が封建的な身分秩序と相いれないのはもちろん,〈後天開闢〉の思想は,李氏王朝の終末を予言する《鄭鑑録》の運命観とも結びついて,李朝支配そのものへの批判を内包していた。

 政府は1864年,崔済愚を処刑して厳しい弾圧を加えたが,第2代教主となった崔時亨(さいじこう)は教祖の思想を表現した《東経大全》や《竜潭遺詞》を復元・刊行し,教義の体系化を図るとともに,南部朝鮮一帯への布教に力を注いだ。各地域の教徒集団を〈包〉と呼んで接主がこれを統率し,その上に都接主,中央に道主を置くという教団組織が確立するのもこの時期である。さらに,92年から翌年にかけ全羅道の参礼や忠清道の報恩に教徒を集めて,教祖の冤罪(えんざい)を晴らし東学の合法化を得るための運動をくりひろげ,94年の甲午農民戦争(かつて〈東学党の乱〉ともよばれた)への気運が急速に醸成されていった。この農民反乱において東学は,民衆の現状打開の意欲を鼓舞するとともに変革への一定のビジョンを与え,従来の民乱がもっていた地域的分散性を克服する組織的媒体としての役割を果たした。農民軍敗北ののち東学は大弾圧を受けたが,第3代教主孫秉煕(そんへいき)は1905年,東学の正統を継ぐ宗教として天道教を宣布,今日に至っている。
甲午農民戦争
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東学」の意味・わかりやすい解説

東学
とうがく

朝鮮の新興宗教。19世紀の朝鮮は政治的、社会的不安が高まっていたが、慶州の没落両班(ヤンバン)の崔済愚(さいせいぐ)は1860年に、民間信仰と儒・仏・仙を参酌(さんしゃく)して東学を創始した。信仰の具体的方法は、「至気今至、願為大降」「侍天主造化定、永世不忘万事知」の21文字の呪文(じゅもん)を唱え、「弓弓乙乙」と書かれた「霊符」を灰にして飲み、剣舞をすることなどである。この修行を通して「守心正気」すれば、だれでも現世で「天人一如」の神のようになれる。つまり、神は人間に内在しているが、人間が神に昇華できるかどうかは修行いかんである。修行すればまず「済病長生」が可能であり、次には世直しの「後天開闢(かいびゃく)」が進行して地上天国が実現するが、そこには身分的差異はない。さらには、欧米列強の侵攻を撃退するために、武力の基礎にある精神力の「西学=天主教」に対抗するものとして「東学」が創始され、「輔国(ほこく)安民」の宗教となった。

 こうした反封建、反侵略の色彩の強い東学は、生活に苦しむ農民に急速に広まっていった。朝鮮政府は、東学を邪教として弾圧し、崔済愚を1864年に死刑に処した。第2代教主崔時亨(さいじこう)は禁圧のもとで、教祖の遺文である『東経大全』と『竜潭(りゅうたん)遺文』を刊行するとともに組織を体系化し、布教を着実に広めた。そして東学は、94年の甲午(こうご)農民戦争(東学党の乱)に大きな役割を果たしたが、農民軍の敗北で打撃を受けた。崔時亨は98年に逮捕、処刑された。東学布教は1905年ごろから公然化するが、天道教、侍天教などに分裂した。しかし、天道教が主流となり、第3代教主孫秉煕(そんへいき)は、19年の三・一独立運動の中心人物の一人となった。天道教は今日でも大きな影響力をもっている。

[朴 宗 根]

『呉知泳著、梶村秀樹訳・注『東学史』(平凡社・東洋文庫)』『姜在彦著『近代朝鮮の変革思想』(1973・日本評論社)』

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百科事典マイペディア 「東学」の意味・わかりやすい解説

東学【とうがく】

朝鮮,李朝末期の民衆宗教。東学とは西学(キリスト教)に対抗する宗教の意。伝統の民族信仰をもとに儒・仏・道3教などを取り入れて創始。1860年ごろ崔済愚(さいせいぐ)が唱道。〈人すなわち天〉という理念のもと,地上天国の実現を主張したが,政府は邪教として禁圧,1864年崔を処刑した。第2代教主の崔時亨は《東経大全》《竜潭遺詞》などにより教義を体系化し,南部朝鮮への布教につとめ,教団組織を確立した。1892年から教祖の冤罪(えんざい)を晴らす運動を広め,やがて甲午農民戦争へ発展。第3代の孫秉煕(そんへいき)は東学の正統を継ぐ天道教を宣布し,今日にいたる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「東学」の解説

東学
とうがく

李朝の末期,崔済愚 (さいせいぐ) によって創始された朝鮮の民衆宗教
社会不安の増大と西欧の侵略に揺れる1860年ごろ,民間信仰をもとに儒学・仏教・道教を取り入れて成立。「人すなわち天」とする人間の平等思想をもち,西学すなわちキリスト教に対抗した。開祖崔済愚が処刑された後も勢力を広げ,甲午農民戦争にも大きな影響を与えたが,李朝により弾圧された。

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普及版 字通 「東学」の読み・字形・画数・意味

【東学】とうがく

宮東の大学。

字通「東」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の東学の言及

【甲午農民戦争】より

…李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方は開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動を公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月,全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。…

【崔済愚】より

…朝鮮,李朝末期の宗教,東学の創始者。号は水雲斎。…

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