平安末以後、奈良興福寺衆徒(しゅと)を構成していた、大和(やまと)国一円の興福寺末寺の衆徒をいう。『大乗院寺社雑事(ぞうじ)記』によれば、戌亥(いぬい)方(北西)の當麻寺(たいまでら)など8か寺、丑寅(うしとら)方(北東)の富貴寺(ふきじ)など7か寺、辰巳(たつみ)方(南東)の明王寺など2か寺、菩提(ぼだい)院方の海住山寺(かいじゅうせんじ)など14か寺、龍花(りゅうげ)院方の長谷寺(はせでら)など10か寺、そして未申(ひつじさる)方(南西)は寺名伝わらず、以上六方の衆徒をさす。東西金堂衆などとともに興福寺衆徒として強訴(ごうそ)などした。
[木内曉央]
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