日本大百科全書(ニッポニカ) 「當麻寺」の意味・わかりやすい解説
當麻寺
たいまでら
奈良県葛城(かつらぎ)市當麻にある寺。真言(しんごん)、浄土の両宗に兼属する。二上山(にじょうさん)禅林寺(ぜんりんじ)と号する。612年(推古天皇20)用明(ようめい)天皇の皇子麻呂子(まろこ)王が建立した河内(かわち)(大阪府)の万法蔵院(まんぼうぞういん)を、王の孫当麻国見(たいまのくにみ)が役行者(えんのぎょうじゃ)を開山として681年(天武天皇10)現在地に移転、改称したといわれる。しかし、東西両塔(国宝)並立の奈良時代伽藍(がらん)配置の遺構を存するところから、天平(てんぴょう)年間の初頭(730ころ)に当麻氏の氏寺として創建されたとの説もあり有力である。
763年(天平宝字7)横佩(よこはぎ)の大臣(おとど)とよばれる藤原豊成(とよなり)の女(むすめ)、中将姫が當麻寺に入って法如(ほうにょ)と号し、阿弥陀如来(あみだにょらい)の助力によって織り成したと伝える浄土変相(じょうどへんそう)図があり、蓮糸(はすいと)の「當麻曼荼羅(たいままんだら)」として有名だが、実際は絹糸の綴織(つづれおり)である。破損が甚だしいため何度も複製され、現在、曼荼羅堂(本堂)厨子(ずし)に安置されているのは1685年(貞享2)作のもので、曼荼羅堂や厨子とともに国宝となっている。また前に複製された「文亀(ぶんき)曼荼羅」は国の重要文化財に指定。
1180年(治承4)平氏の南都焼討ちの際、東西両塔を除いて被災、以後は浄土教中心の道場として栄えた。当寺の近傍に出生したといわれる源信の影響からか、5月14日には「當麻寺のお練(ね)り」で知られる「聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)」が行われ、いわゆる迎講(むかえこう)の姿を伝える数少ない現存例の一つとして有名である。金堂、講堂は鎌倉時代の建築で、国の重要文化財。塔頭(たっちゅう)中之坊は室町時代の美しい建築で、書院、円窓席茶室は国の重要文化財、庭園は国指定名勝。本尊の塑造弥勒仏坐像(そぞうみろくぶつざぞう)や銅鐘(いずれも奈良時代作、国宝)など宝物も多く、當麻寺だけで、国宝8件、国指定重要文化財28件を数える。寺宝の展示施設(中之坊霊宝館、奥院(おくのいん)宝物館)もある。また、ボタンの名所として知られ、多くの観光客を集めている。
[若林隆光]
『町田甲一著『古寺辿歴』(1982・保育社)』▽『中田善明他著『古寺巡礼 奈良7 当麻寺』(1979・淡交社)』▽『柳沢孝・辻本米三郎・渡辺義雄著『大和の古寺2 当麻寺』(1992・岩波書店)』▽『河中一学著『当麻寺私注記』(1999・雄山閣出版)』