カベニャック
かべにゃっく
Louis Eugène Cavaignac
(1802―1857)
フランスの軍人、政治家。ナポレオン没落後に成立した復古王政期に工兵職業軍人としての経歴をたどり、シャルボヌリ(炭焼)党に加盟、その共和主義の信条のため待命処分を受けた。1830年の七月王政成立後まもなく現役に復帰、アルジェリア征服戦争に参加、1848年にはアルジェリア軍政総督となった。同1848年の二月革命後、憲法制定議会選挙に穏和共和派のナシオナール派から推されて当選、陸軍大臣となり、労働者の6月暴動時に議会から全権を委任され、これを過酷に鎮圧した。その後内閣議長となり独裁的権限を与えられたが、12月の第二共和政大統領選挙ではルイ・ナポレオンに大敗を喫した。1851年12月2日の大統領のクーデター時に逮捕されたがまもなく釈放された。翌1852年の立法院選挙に当選したが、第二帝政憲法に忠誠を拒否して辞任、共和主義者の立場を貫いた。
[桂 圭男]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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カベニャック
Eléonore-Louis-Godefroy Cavaignac
生没年:1801-45
七月王政下の革命的共和派の運動を指導し,19世紀フランスにおけるその先駆者となった政治家。大革命期に国民公会議員であった父の影響で,ジャコバンの信奉者となる。七月革命前はカルボナリ党などの結社に属したが,革命直後に人民の友協会を組織,これが1832年6月パリの民衆蜂起で弾圧されると,強力な下部組織をもつ人間の権利協会の発展に努め,中央委員会の議長となった。組織内の穏健派と革命派の協調に腐心すると同時に,《革命のパリ》(4巻)を編集するなど,宣伝活動にも力を尽くした。1834年4月,リヨンとパリに起こったこの結社の蜂起に際しては,軽挙を戒めて中央委員会を主導したが,リヨンで蜂起が突発することになった。投獄されたサント・ペラジー監獄から脱出し,41年までロンドンに亡命した。弟のウージェーヌEugène C.(1802-57)は共和派の将軍として第二共和政の陸相となったが,六月暴動を戒厳令下に鎮圧した。
執筆者:喜安 朗
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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「カベニャック」の意味・わかりやすい解説
カベニャック
フランスの軍人。1832年―1848年アルジェリアの反乱鎮圧で認められ,二月革命後陸相。ブルジョア共和派の立場で共和政建設に重要な役割を果たすが,六月蜂起を鎮圧し,労働者,小ブルジョアの支持を失い,大統領選でルイ・ナポレオンに敗北。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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カベニャック
Cavaignac, Godefroy
[生]1801. パリ
[没]1845.5.5. パリ
フランスの政治家。国民公会議長 J.カベニャックの長男。シャルル 10世とルイ・フィリップ統治期の共和派の指導者。七月王政に絶えず反抗し,1834年の4月事件 (パリ,リヨンの労働者暴動) によって投獄され,その後イギリスに逃亡。 41年帰国し,43年「人権協会」の議長に就任。
カベニャック
Cavaignac, Louis-Eugène
[生]1802.10.15. パリ
[没]1857.10.28. サルト
フランスの軍人,将軍。アルジェリア征服戦争で活躍し,1848年アルジェリア総督。帰国後陸相。 48年の六月事件を弾圧。ブルジョア共和派の指導者として大統領選挙にルイ・ナポレオン (のちのナポレオン3世) と争って敗退。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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カベニャック
Louis Eugène Cavaignac
1802〜57
フランスの軍人
アルジェリア総督から1848年の二月革命後陸相となり,ブルジョワ共和派を指導。六月事件を武力で弾圧したため,小市民や下層民の支持を失い,大統領選挙ではルイ=ナポレオンに敗れた。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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