東新町
ひがししんまち
[現在地名]大分市金池町四―五丁目など
城下の南東端に位置する。塩九升口を出た日向や臼杵への道(日向道、臼杵・府内城路)が外堀(船入)を渡り、塩九升町・六軒町を南下して当町に出る。戦国時代府中絵図(大分市史)によれば当地一帯は穴打町・下町にあたり、二筋ある下町の通りの西側に大雄院と大智寺があり、東側の通りの東に稲荷社がある。慶長府内絵図に町名がみえ、塩九升町から土居の外に出ていったん東に折れた日向道が南下し、さらに西に折れたのちもう一度南に折れて南下する辺りの両側が町域。周辺は田畑が広がる。天明五年(一七八五)の府内城下絵図(県立大分図書館蔵)には上野道と記される。慶長府内絵図によると東側・南側とも南北九三間半、入一五間。道を挟んで東方に萬寿寺、南西方に大智寺があり、同寺の南で日向道から東に分岐する道は佐賀関の大道と記される。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]徳島市東新町一―二丁目・新町橋一丁目
新町橋の通り筋より東へ入った東西の通りに沿った町人地。東船場片町の南に並行する。新町は新町橋筋で東西に分けられ、東側を職人の町、西を商人の町とされたといい、「阿波志」に古くは鍛冶屋町と称し、刻町という支坊があったと記されるように、かつては鍛冶職人の町であったらしい。貞享二年(一六八五)の市中町数並家数(民政資料)には鍛冶屋町筋とみえ、東西の町数四町一〇間、家数九二軒とある。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]篠山市東新町
篠山城東方の外堀と黒岡川の間に置かれた武家地で、東新町の町名は明治五年(一八七二)に公称されたもの。江戸時代には東堀端・餌差町・川の町・石上寺前町・石上寺横町・割場裏町・割場後町・蛤小路などがあった。北部の石上寺前町・石上寺横町は元和八年(一六二二)松平忠国が建立した岩上寺に由来するもので、跡地に松平康信の祈願所となった円通寺が建てられた(転封により移建)。割場に応永元年(一三九四)の創祀という秋葉神社(明治一九年小川町境に移す)や天神(春日神社に合祀)などがあったほか、延宝九年(一六八一)に桑田郡松尾村(現京都府美山町)から真言宗の宝寿院が移されている(篠山町誌)。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]明石市相生町一―二丁目
城下町の東の入口である京口御門から東隣の大蔵谷宿に至る、山陽道沿いのおよそ四町余りの町。北は外堀沿いに続く足軽組屋敷、南は明石湊を前にした明石藩主の御座船の船置場であった御船宮。明石城の郭外で、山陽道を外堀と明石湊の内川とで挟み込んだ戦略上の重要拠点を占めていたと考えられる。元和四年(一六一八)の築城とともに成立した明石惣町一〇町のうちに町名はみえないが、城下町の発展とともに成立した町で、天和二年(一六八二)西新町・新浜とともに惣町分を申付けられ惣町の一つとして編入された(町割年号記)。正保三年(一六四六)頃から民家が建ち始め、やがて街並を形成(采邑私記)。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]松前郡松前町字豊岡
近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。東片町(宝暦一一年「御巡見使応答申合書」)、馬形新町(天保一四年「御触留書」市立函館図書館蔵)とも称された。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の東部の南側に位置し、西は東上町。文化三年(一八〇六)の松前市中地図では東新町、文化頃の松前分間絵図には「東新町又片町トモ申」と記され、松前大膳邸などがある。文政六年(一八二三)の東上町を含む家数一七六・人数五五六(「村鑑下組帳」松前町蔵)。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]東区東桜一丁目
禅寺町の西、西新町の東にあり、武平町から東に続く台地下の南北の通りで、北は東門前町から南は七曲筋の東部に至る。成立は西新町と同じく万治年中(一六五八―六一)と考えられ、両側とも中級の武家屋敷が建並んでいた(尾張志)。明治三八年(一九〇五)西新町に開かれた愛知淑徳女学校は、翌三九年、東新町に移った。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]津山市東新町
津山城下最東端の町で、出雲往来の両側に東西に連なる。西は西新町、東は河崎村、南は吉井川、北は上之町の侍屋敷。出雲往来は町の東辺の荒神まがりでわずかに北に折れて東行する。もとは西新町と併せて林田新町と称し、寛永三年(一六二六)城下に編入(→西新町)。正保城絵図は町の東端を「茅屋町」と記す。元禄町絵図には「カチ町」とあり、また南の堤沿いに扶持人屋敷が記されているが、検討を要する。元禄一〇年(一六九七)の家数等改帳では東新町一丁目・二丁目として家数七三、本役三五軒九分五厘、町筋東西一四二間・通道町幅二間二尺、関貫一。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]檜山郡
江差町字
新栄町 近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。稲荷町とも称された(江差)。豊部内川の北岸、中新町の東に位置する。文化四年(一八〇七)の江差図(京都大学文学部蔵)には町名がみえない。「蝦夷日誌」(二編)には横巷十九町の一として東新町とあり、また稲荷町ともみえ、川原新町・片瀬町より東、稲荷社に至る道を上った地にある。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]八尾町東新町
諏訪町の南西にあり、天保一四年(一八四三)の町絵図(県立図書館蔵)では南東に八幡宮が描かれる。寛政五年(一七九三)乗嶺屋四郎兵衛の請願によって西新町とともに町立てされた(八尾創立旧記)。両新町を新屋敷と別称するという。慶応四年(一八六八)の本家家数四二・人数一八七、借家家数一四・人数五一、同居人家数一四・人数四〇(郡方人別書上帳)。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]宇都宮市駅前通り三丁目・南大通り四丁目
八日市場の東、道場宿村へ至る街道に沿った東西に長い平坦な町並。東は宿郷村に続き、北と西は川向侍屋敷に囲まれ、南に林松寺がある。正徳四年(一七一四)に奉行人屋敷を町屋として成立したといわれ、年貢地。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]彦根市京町三丁目
七十人町の東にある。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数一三〇のうち借家九六、男女各二三九(ほか下人二三)、諸職諸商は二六種五三軒で、大工一二のほか紙屋・紺屋・麻屋・飴屋・麹屋・干物屋・味噌屋・佃屋・箔屋・鍋屋など、町代・横目とも木綿屋が勤めている。
東新町
ひがししんまち
[現在地名]松任市東新町
西新町の東に続く新町通の両側町で本町。東は東一番町に続く。天明五年(一七八五)の町絵図(松任市立博物館蔵)に町名がみえ、両側に町家の屋並が描かれている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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