冬野村(読み)ふゆのむら

日本歴史地名大系 「冬野村」の解説

冬野村
ふゆのむら

[現在地名]明日香村大字冬野

かみ村の南方、標高約六五〇メートルの丘陵頂に立地。南は竜在りゆうざい峠を経て吉野郡滝畑たきはた村に通じる。安政三年(一八五六)の多武山二十六勝志には「ふきの ノ字、土俗誤テ蕗ニ作ル、更ニ省キテ冬ニ作ル」とある。

文禄検地当時の村高は三一石、検地奉行石田正澄近世を通じて高取藩領で、免率は同藩内では低率の三ツであった。江戸時代中期、鎮守社は気田けた大明神社、寺院は大楽たいらく(浄土宗)があった(飛鳥古跡考)。享保一九年(一七三四)左衛門尉松洲の著した「高野吉野巡覧記」に、

<資料は省略されています>

とある。


冬野村
ふゆのむら

[現在地名]福井市冬野町

じよう山南麓にあり、南は中野なかの村、東は安保あぼ村。永享九年(一四三七)一〇月二日付妙観安堵状写(専照寺文書)に「鹿苑院領越前国蕗野保中野念仏道場之事」とある「蕗野保」は当地と考えられ、南北朝時代には蕗野寺ふきのじ城もあった。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえるが、高一六九二・六五三石で、これはのちの正保郷帳の冬野・中野・安保杉谷すぎたに引目ひきめの五村を含む。同帳によると、冬野村は田方一六七石余・畠方三七石余。


冬野村
ふゆのむら

[現在地名]和歌山市冬野

名草なくさ郡に属し、和田わだ川とかめの川の中間部、朝日あさひ村の南西にある。中世和田庄に含まれ、元応二年(一三二〇)五月八日付和田庄中分一方帳写(国立史料館蔵)に「冬野郷」とみえる。慶長検地高目録によると高一千一八一石余、小物成九斗九升二合。吉原組に属し、同組大差出帳(和歌山大学蔵)によれば、家数一三〇、人数八歳以上五九九、牛四一、馬一、池二四、松山一七。文久元年(一八六一)の吉原組達し留(宮本家蔵)に載る願書によると、同年、米価高値のため弱百姓に「御救として粥米」が下されたが、その米を庄屋が横領したとして頭百姓・小前百姓が代官に訴え、庄屋をやめさせている。


冬野村
ふゆのむら

[現在地名]押水町冬野

前田まえだ川南岸に位置し、南は森本もりもと村。元和二年(一六一六)の冬野村検地打渡状(岡部文書)によると高三七五石余。正保郷帳も同高で田方二一町八反余・畑方三町二反余、免三ツ四歩四厘、ほかに新田高三三石余(免二ツ七歩四厘)を記す。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高四二二石、免四ツ一歩、新田高六石、小物成は山役七六匁・苦竹役六匁、鳥役七匁(出来)、野役一三匁とされるが(三箇国高物成帳)、天保年間(一八三〇―四四)の村明細では高三一五石と激減、家数三六(うち頭振一〇)・人数一九二、馬一三で稼は蚕・苧であった。


冬野村
ふゆのむら

[現在地名]塩田町大字久間くま字冬野

杵島きしま山の西山麓地帯にあたる。東・南は杵島郡に、北は志田しだ村に、西は下久間しもくま村に接している。慶長絵図に「冬野 白石郷ノ内」とある。藩政時代は蓮池はすのいけ領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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