日本大百科全書(ニッポニカ) 「刀根康尚」の意味・わかりやすい解説
刀根康尚
とねやすなお
(1935― )
ニューヨークを拠点に活動する美術家、作曲家。東京生まれ。1952年(昭和27)千葉大学文学部国文科を卒業後、音楽研究家小泉文夫(ふみお)(1927―1983)の説く「民族音楽」やジョン・ケージの「偶然性の音楽」の影響の下に1960年に結成された「グループ・音楽」(小杉武久(たけひさ)、塩見允枝子(ちえこ)(1938― )、水野修孝(しゅうこう)(1934― )、戸島美喜夫(とじまみきお)(1937―2020)らによる集団即興演奏グループ)に参加する。刀根は、大学在学中に評論家栗田勇(いさむ)(1929―2023)の下でシュルレアリスムを研究し、アンドレ・ブルトンが提唱していた「自動記述」の方法によって、表現における主観と客観という二元論の解体を目ざしていた。そこで、楽譜を中心とする演奏ではなく、楽器以外のものも含めた「音」そのものに価値をみいだし、それを即興的に演じる「行為としての音楽」に注目する。それは、同時代美術でのアンフォルメル絵画、アクション・ペインティング、イベントといった活動と共振しながら、作曲と指揮、楽譜と演奏、演者と聴衆、それぞれの区別を取り払う試みとして発展した。
1960年、東京芸術大学音楽学部の小さな部屋で、ひたすら即興演奏を続けていた小杉(バイオリン)と水野(チェロ)に、刀根が騒いだり、下駄(げた)を履いて行うアクションを導入して、楽器以外の即興と偶然性が絡んだ表現に行き着いたことが「グループ・音楽」の出発点となった。このメンバーは拡散・交替しながら開放的なグループ活動を進めたが、グループ名をタイトルにしたデビュー・コンサート、「グループ・音楽」第1回公演「即興音楽と音響オブジェのコンサート」が、1961年に草月アートセンター(東京)で催された。この音と行為によるハプニングには一柳慧(いちやなぎとし)やオノ・ヨーコ、高橋悠治(ゆうじ)らが共感を寄せ、後に彼らとのジャム・セッションにもつながった。同グループは、1962年から1964年までは邦千谷(くにちや)舞踊研究所で活動を続けた。刀根の個展としては、1962年に「刀根康尚〈作曲家の個展〉」(南画廊、東京)、1964年に内科画廊(東京)があった。その後、1972年に単身渡米し、マース・カニンガム舞踊団のために作曲し共演するなどの活動を続ける。
1984年「グッド・モーニング・ミスター・オーウェル」(アメリカ、フランス、西ドイツ、韓国、日本で放映された現代アートと音楽による衛星中継番組)に参加。1986年にソロ・コンサート(エクスペリメンタル・インターメディア・ファウンデーション、ニューヨーク)。国際展への参加は、1986年「前衛の日本1910―1970」展(ポンピドー・センター)、1990年「第2回国際聴覚芸術祭」(ホイットニー・アメリカ美術館、ニューヨーク)、1994年「戦後日本の前衛美術」展(グッゲンハイム美術館ソーホー、ニューヨークほか)など多数。著書には『現代芸術の位相』(1970)がある。ソロ・アルバムには『ムジカ・イコノロゴス』Musica Iconologos(1993)、『ソロ・フォー・ウーンディドCD』Solo for Wounded CD(1997)、『ヤスナオ・トネ』Yasunao Tone(2003)などがある。
[高島直之]
『『現代芸術の位相――芸術は思想たりうるか』(1970・田畑書店)』