江戸時代,幕府が農民の担税能力保持を目的として,相続あるいは分与にあたり農民が所持耕地を分割することに一定の制限を加えた法令。初見は1673年(延宝1)6月で,名主は20石以上,百姓は10石以上,それより少ない者は田畑をみだりに配分してはならない(《伍簿案》)としている。《伍簿案》は典拠として若干信頼度が低いが,このころ分地制限令が発令されたことはまちがいない。その後1713年(正徳3)には〈田畑の配分は高10石,地面1町歩より少なく分地することを禁止する。その場合,分け高だけでなく,残り高もこの定めより少ないのはいけない。したがって20石2町より少ない者は,子供をはじめ諸親類へ田畑を分けてはならない〉(《新選憲法秘録》)とした。10石1町を所持していることが,幕府の期待する農家規模であることが示されている。なお諸藩でも分地制限はみられた。所持耕地面積が担税能力を示す有力な指標ではなくなる江戸時代中期以降,この法令にどれほどの重きがおかれたかは不明である。
執筆者:斎藤 洋一
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江戸時代、農民による田畑の分割相続を制限するため、幕府が出した法令。諸藩の多くも、これに準じた制限令を発した。分割相続によって零細な小経営が増加し、農民の年貢負担能力が阻害されることを防ぐ目的をもって、幕府法令としては、1673年(寛文13)6月に発令されたのが、現在年月日を確認できる最初のものである。これに先だつ江戸初期において、幕府農政の基調は小農民経営の増大と維持にあった。そのため17世紀なかばごろまでは「慶安(けいあん)検地条目」にみられるごとく分割相続も公認してきた。分地制限令は、このような従来の農民支配政策の転換を示すものにほかならない。分地制限令の内容は、それが発せられた時代によって若干の差異がみられるが、主眼は石高(こくだか)10石(耕地1町歩=約1ヘクタール)以下の小規模経営が増大するのを防ぐことにあった。
[曽根ひろみ]
近世の幕府法・藩法のうち,農民の耕地分割相続を制限する法。発布しなかった藩もあった。幕府は1673年(延宝元)6月,1713年(正徳3)7月,22年(享保7)11月,59年(宝暦9)に発布している。1673年令では,名主は所持石高20石以上,その他の百姓は10石以上の場合にだけ田畑の分割相続を許したが,1713年令では,分地の結果生じる複数経営のいずれにおいても,高10石・耕地1町以上の所持が必要とされた。分家による農家の耕地保有量減少を防いで本百姓を維持し,武家奉公人も確保する意図で出された。
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…この禁令は五人組帳前書の類で繰り返され,関東以北の地では幕末まで禁止は続いている。また永代売の禁令におくれて73年(延宝1)には分地制限令が出された。この禁令は,禁止の対象となる量にときにより差異があるが,ほぼ石高10石(田畑半々,全部中田畑とみて約8反4畝(84a)をもつ百姓を維持存続させようとしたものとみられる。…
…農民は持高に応じて領主に対する年貢,諸役を負担させられたので,持高の多い者は村内における発言力も大きく,持高の多寡によって農民の社会的地位がほぼ決まった。また,5~10石程度の持高がないと一軒前の百姓として相当の家計を営むことが困難であることから,幕府,諸藩では持高10石未満の百姓が耕地を分割することに制限を加えた(分地制限令)。【松尾 寿】。…
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