検地条目(読み)けんちじょうもく

改訂新版 世界大百科事典 「検地条目」の意味・わかりやすい解説

検地条目 (けんちじょうもく)

封建領主が検地実施に際して検地役人にあてて出した検地実施規則のことで,〈検地条目〉と銘うったものもあるが,〈掟条々〉〈定条々〉〈置目〉などさまざまある。実際に検地役人を派遣して1筆ごとに測量する検地方法は太閤検地に始まり,検地条目もそのときからと考えられる。太閤検地も当初はまだ従来慣習を踏襲するところがあったが,数年の施行過程をへてしだいに統一規準を設ける方向にすすみ,1589年(天正17)には検地条目の体裁をもった秀吉朱印状が出された。これは5間×60間=300歩を1反とすること,上田は京枡1石5斗(約270.6l),以下2斗(約36.1l)下り,上畑は1石2斗,以下2斗下りなどの斗代とすること,検地役人の非法禁止など,将来の検地条目の根幹となる内容5ヵ条からなっている。その後検地条目は毎年のように出されていき,最もまとまった94年(文禄3)の12ヵ条に至っている。この条目の内容がその後の太閤検地に適用され,ほぼ全国統一的な規準となった。内容は,(1)6尺3寸(約190.9cm)=1間,5間(約9.55m)×60間(約114.53m)=300歩=1反,(2)地目は田・畑・屋敷地,地位は上・中・下・下々,(3)上田1石5斗など各種斗代の基準,(4)村切の実施,(5)京枡の使用,(6)検地奉行以下の非法禁止,などこまかな規定となっている。

 江戸幕府は開幕以来全国の総検地を企画し,慶長・元和期(1596-1624)に大久保長安(石見検地),彦坂元正伊奈忠次備前検地)らを検地奉行とし各地の検地を行っているが,ここでは従来の6尺3寸=1間を6尺(約181.8cm)=1間の新基準に改変した。この新基準を含むまとまった検地条目は見当たらない。江戸幕府のまとまった検地条目としては,1649年(慶安2)の〈検地掟〉が最初で,26ヵ条からなっている。これは慶長以降の幕府の検地規準の集約といわれ,太閤検地段階ではまだ見られなかった詳細な規定となっている(慶安検地条目)。ついで寛文年間(1661-73)には関東の総検地,延宝年間(1673-81)には畿内を中心とした幕領の検地が行われ,77年(延宝5)に29ヵ条の検地条目が出された。慶安・延宝の検地条目は,江戸時代初期の農政を反映して小農民経営の自立・安定化を図るとともに年貢増徴を目ざし,延宝の条目は地主・小作関係や新田検地などをも含みこんだものとなっている。ついで86年(貞享3)の29ヵ条,94年(元禄7)の27ヵ条があり,後者に基づいて関東幕領の総検地が行われた。江戸時代前期には新田開発が盛んに行われ,新田の本田への組替えが検地によってなされていたが,1722-23年(享保7-8)ごろに幕府の新田政策が大きくかわり,それに対応した新田検地条目が26年に出された。全32ヵ条からなり,江戸幕府検地条目の集大成ともいうべきもので,従来のどの検地条目よりも詳細な規定となっている。新田と銘うっているが,この条目はその後の新田以外も含む検地の実施規準となった。その後まとまった検地条目は出ていない。
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百科事典マイペディア 「検地条目」の意味・わかりやすい解説

検地条目【けんちじょうもく】

検地の施行規則で,史料上は定条々(さだめじょうじょう)・置目(おきめ)などとみえる。検地役人を派遣して田畑を測量するのが始まるのは太閤(たいこう)検地からで,検地条目もそれ以来とされ,豊臣秀吉は1589年に朱印状をもって5ヵ条を示している。1594年には地目を田・畑・屋敷として6尺3寸を1間,300歩(ぶ)を1反(たん)と定め,品等を上・中・下・下々として斗代(とだい)を決め,京桝(きょうます)の使用や村切(むらぎり)の設定など12ヵ条にわたる規定となっている。江戸時代には慶長(けいちょう)以降の幕府の検地規準の集約とされる1649年の26ヵ条(検地掟),延宝(えんぽう)検地にかかわる1677年の29ヵ条,関東の幕府領検地の基となる1794年の27ヵ条などが出されている。そして1726年の32ヵ条は幕府の新田政策の変更を受けて詳細な規定を設けており,その後も検地の実施規準として重視された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「検地条目」の解説

検地条目
けんちじょうもく

近世の検地実施に際して,その基本方針や実施細目を定めた規定。通常は検地担当者に対して交付される。1589年(天正17)の美濃国の太閤検地で5カ条の条目が定められたのをはじめ,以後の大規模な検地に際して出された。94年(文禄3)の12カ条の規定は,太閤検地の基準を集大成した条目として知られている。江戸幕府の場合は初期の段階から各地で検地が実施されたが,確認されている条目は,1677年(延宝5)に畿内などの幕領検地に際して出された29カ条と,元禄年間の諸検地に対する27カ条の両条目,および1726年(享保11)の新田検地条目などで,その後まとまったものは出されていない。また慶安検地条目を江戸幕府最初の検地条目とする説には疑問も出されている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「検地条目」の意味・わかりやすい解説

検地条目
けんちじょうもく

江戸時代における検地に関する基本法。元禄年間 (1688~1704) に制定されたものと,それを享保年間 (16~36) に改訂した修正検地条目とが伝えられている。検地を古検,新検と分ける場合に,普通は,太閤検地をもって前者,徳川氏の検地をもって後者にあてるが,享保の法令成立をもって,両者区分の基準とする方式もある。

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世界大百科事典(旧版)内の検地条目の言及

【慶安検地条目】より

…1649年(慶安2)2月,江戸幕府が公布した検地条目。全体は検地掟,検地関係者の起請文前書(御縄打衆,案内者),検地仕様之覚の三つからなるが,通常いう検地条目は検地掟をさす。…

【元禄検地】より

…また幕府は,小規模な検地については幕府代官に担当させたが,旧大名領のような広域の検地に関しては,延宝総検地の場合と同様に近隣諸藩に実施させる方式をとった。検地の基準となったのはいわゆる元禄検地条目27ヵ条(高遠検地より採用)である。この条目は延宝検地の原則をおおむね踏襲したものであり,1反を300歩とし,間竿は1間を6尺1分とした2間竿を使用すること,田畑位付けは上中下に上々,下々を加えた5段階とすることなどをはじめ,詳細な施行細目を規定したものであった。…

【太閤検地】より

…当初は指出(さしだし)を点検する方式で,その限りでは戦国大名検地と大差はなかったが,1589年の山城検地では検地奉行が縄打ちを行っており,以後は実際に土地丈量を行うことが原則となった。同年に行われた美濃検地では,秀吉は検地の施行原則を明示した検地条目を奉行人に交付しており,大規模な検地を実施する際には,そのつど検地条目を発して具体的に指示を与えている。秀吉が検地に際してとった態度は厳しく,とくに征服地では反抗する者には徹底的に弾圧する方針で臨んだ。…

※「検地条目」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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