日本大百科全書(ニッポニカ) 「刑法改正事業」の意味・わかりやすい解説
刑法改正事業
けいほうかいせいじぎょう
現行刑法は、1907年(明治40)に公布され、翌年に施行されてから今日まで、たび重なる部分改正がなされたものの、制定後1世紀を超えて、いまなお、基本的にはその効力を有している(ただ、この刑法を補完するために、行政刑法、経済刑法とよばれるように特別刑法の領域において膨大かつ多種多様な刑罰法規が制定されてきた)。現行刑法制定後、1921年(大正10)には、刑事基本法としてのこの刑法典を全面的に改正しようとする動きが登場し、今日までに、刑法全面改正案として一定の結論が出されたものだけでも、第二次世界大戦前には「改正刑法仮案」があり、戦後では「改正刑法準備草案」と「改正刑法草案」とがある。そこで、以下では、これらの刑法改正事業の背景とその特徴について概観したうえで、1995年(平成7)に成立した、現代用語化による表記の平易化を基本とする改正がなされた現在の刑法についても言及する。
[名和鐵郎]
改正刑法仮案
1921年(大正10)、時の政府は、臨時法制審議会を設置し、これに対して、(1)わが国固有の道徳および美習良俗(すなわち「淳風美俗(じゅんぷうびぞく)」)の維持、(2)人身および名誉の完全な保護、(3)犯罪防止の効果を確実にするための刑事制裁の種類と執行方法の改善、の3点を理由として、刑法の改正案を諮問した。同審議会は、1926年「刑法改正ノ綱領」を答申し、これを受けて、司法省部内で「刑法改正予備草案」が作成され、これに基づいて「刑法並監獄法改正調査委員会」は、1931年(昭和6)に総則部分、1940年に各則を含めた「改正刑法仮案」を未定稿として公表した。この仮案の特徴は、先の改正理由に対応して、(1)皇室に対する罪や内乱罪など国家犯罪を拡大・強化したこと、(2)人身および名誉に対する罪の法定刑を全般的に引き上げたこと、(3)不定期刑、保安処分など刑事政策的な制度を積極的に採用したこと、にある。
このように、仮案は日本固有の「淳風美俗」を強調する旧派(小野清一郎など)と刑事政策を重視する新派(牧野英一など)との奇妙な妥協の産物であった。その後、この仮案は、1941年に日本がいわゆる「太平洋戦争」へと突入することにより、改正作業は断念を余儀なくされた。ただ、これらのいくつかの点は、1941年の刑法一部改正として実現され、また、同年の治安維持法の改定において、「予防拘禁」の制度として仮案の思想が生かされることとなった。
[名和鐵郎]
改正刑法準備草案
日本の敗戦、それに続く新憲法の制定に伴い、この新憲法にふさわしく、旧憲法時代に制定された刑法典を全面的に改正すべきであるという主張が一部にみられたが、これは採用されるに至らなかった。そこで、1947年(昭和22)、皇室に対する罪や外患に関する罪のうち間諜(かんちょう)罪など新憲法における平和主義や国民主権と明らかに矛盾するいくつかの規定を削除するとともに、表現の自由を保障するために名誉毀損(きそん)罪に関する「事実の証明」の規定(230条の2)を新設したり、公権力の濫用を防止するために、公務員による職権濫用の罪を厳しく処罰しようとする部分改正がなされた。ところがサンフランシスコ講和条約締結後、鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣は、「戦後は終わった」というスローガンのもとに、憲法の改正に向けて「憲法調査会」を発足させるとともに、刑法全面改正を目的として、1956年、法学者小野清一郎を法務省の特別顧問とする「刑法改正準備会」を発足させた。この準備会は、前述した「改正刑法仮案」を「戦前における刑法改正作業の貴重な財産」として、これを基礎に3年半にわたる審議を行った結果、1960年「改正刑法準備草案(未定稿)」を公表し、翌1961年には、理由書とともに確定稿を発表した。これが「改正刑法準備草案」である。この草案は、総則のレベルでは、共謀共同正犯の規定を新設したり、保安処分の制度を新たに導入するとともに、各則では、戦後に削除された間諜罪を機密探知罪として実質的に復活したり、偽計や威力による公務執行妨害罪や騒動予備罪を新設するなど、国家主義や治安主義に傾き、新憲法の理念を反映した名誉毀損罪に関する「事実の証明」の条項のうち、その第2項、第3項を削除するなど、1947年改正をも後退させるものであった。この草案に対しては、刑法学者、弁護士会、マスコミのなかに強い批判がみられたばかりでなく、当時の国民世論を二分した日米安保条約改定の余波を受けて、改正作業はそれ以上進展しなかった。
[名和鐵郎]
改正刑法草案
前述の準備草案の公表から1年半後の1963年(昭和38)5月、法務大臣は、法制審議会に対し、「刑法に全面改正を加える必要があるか。あるとすればそれの要綱を示されたい」とする諮問を行った。これを受けて、法制審議会のなかに、この諮問に対する答申の原案を作成するための「刑事法特別部会」が設置され、前述した準備草案を「重要な参考資料」として、五つの小委員会に分かれて具体的な検討に入った。そして、刑事法特別部会は、1971年12月に、373条に及ぶ改正案を法制審議会会長(法務大臣)に提出し、この案に事務当局による字句上の調整を加えた部会草案が説明書とともに、翌1972年3月に公表された。引き続き同年4月から、法制審議会は前記の部会草案につき検討に入り、1974年5月29日、その総会で、「(1)刑法に全面的改正を加える必要がある。(2)改正の要綱は当審議会の決定した改正刑法草案による」という決定を行い、これを法務大臣に答申した。これが「改正刑法草案」であり、部会草案のうち、総則第10章の「判決の宣告猶予」の規定を削除したものである。この草案は369条に上るが、その内容は、この審議にあたり「重要な参考資料」とされた改正刑法準備草案をおおむね踏襲するものである。準備草案にあった機密探知罪や偽計または威力による公務執行妨害罪は削除されている反面、外国元首・使節に対する暴行・脅迫・侮辱罪や企業秘密漏示罪が新設され、騒動予備罪が拡大されるとともに、懲役・禁錮の下限が現行の「1月以上」から「3月以上」に、また、拘留も現行の「1日以上30日未満」から「1日以上90日未満」へと、それぞれ大幅に引き上げられるなど、治安重視による処罰の拡大と重罰化が図られている。そのため、改正刑法草案に対して、数多くの中堅クラスの刑法学者で組織された「刑法研究会」が理論的な批判活動を展開したのをはじめ、その他の刑法学者、日本弁護士連合会、労働組合、言論界、精神医学界などから、さまざまな疑問や批判が出された。
そこで、法務省は、1976年6月、改正刑法草案のうち、とくに批判の強い部分につき手直しを加えた「刑法の全面改正について」と題する中間報告を公表するとともに、日本弁護士連合会との間で「刑法問題意見交換会」を重ねた。その結果、1981年12月26日、法務省から「刑法改正作業の当面の方針」が示されるに至った。この当面の方針で、法務省はかなり譲歩する見解を示してはいるが、保安処分制度(「治療処分」とよばれる)の新設を明らかにするとともに、共謀共同正犯、外国の元首に対する暴行・脅迫・侮辱罪、騒動予備罪、企業秘密漏示罪など多くの重要な論点について「なお検討の上、決定する」とした。
[名和鐵郎]
刑法の口語化・平易化
このような法務省の動きに対応して、日本弁護士連合会(日弁連)や刑法学者のなかに、刑法全面改正ではなく、現行刑法の「口語化」(または「現代用語化」)を図ろうとする考え方が強まり、1983年(昭和58)には、これを基本とする対案が前後して公表された。すなわち、日弁連の「現行刑法の現代用語化案・日弁連試案」であり、刑法研究会の「刑法研究会試案(未定稿)」である(なお、日弁連は、1993年2月、この案を手直しした「現行刑法現代用語化・日弁連案」を公表した)。これらの試案に共通するのは、単なる現代用語化にとどまらず、おおかたの合意が得られるような場合には、規定の削除や内容上の変更などの手直しを加えたことである。その一方で、法務省は、1990年代に入ると、口語化または現代用語化に向けた試案の作成を開始し、1993年(平成5)2月には「刑法現代用語化試案(参事官室検討案)」をまとめた。この案は、1994年6月、法務大臣から法制審議会に対して、諮問第40号として諮問されたが、ここでは、「表記の平易化等」のための刑法改正とされている。この諮問案は、法制審議会によって修正が加えられ、さらに実務的な観点から若干の修正がなされ、1995年3月14日、「刑法の一部を改正する法律案」として国会に上程され、4月28日に成立した。これが現在の刑法典である(1995年6月1日から施行)。現行法では、現代用語化による表記の平易化を基本原則としているが、例外的として、尊属殺(200条)などの「尊属加重」や「聾唖(ろうあ)者」(40条)の規定が削除された。
[名和鐵郎]