西洋では,ローマ法は,はじめ名誉を保護しなかったが,のちに,都市生活の発展によって社会的・精神的利益が重視されるに伴い,これを保護するようになった。そこでは,国家法で承認された地位が,名誉として重視されたといわれる。制裁はおもに損害賠償であったが,やがて刑事制裁にも拡大された。名誉をとくに重視したのはゲルマン人であるが,彼らは,道徳的に非難されないことを重視した。個人に対する非難は同時に彼の氏族に対する非難・攻撃と観念され,氏族による復讐がなされた。これは,彼らの集団中心の社会を反映するものである。復讐は,のちに贖罪金に代えられた。中世の騎士たちは,名誉を極端に重んじ,決闘によって名誉を守ろうとした。この習俗は近世まで続いた。やがて都市が興り,生活が広域化すると,復讐・決闘は制限され,民事的・刑事的な法的制裁がこれに代わった。近代に入ると,個人主義思想に基づいて名誉も個人の人格・行為による個人的なものとされるようになり,近代的名誉法制が形成された。英米法のコモン・ローも名誉の保護を認めるが,その処罰は,名誉毀損が闘争を招き治安を乱すという見地からなされ,文書による誹謗に限られる。なお,ドイツ法は,ゲルマン法の伝統を継いで,指摘された事実が真実ならば罰しない立場をとるが,フランス法は,〈私生活は隠されねばならない〉との考え方から,真実の証明による免責を認めない。英米法も,〈真実が大なほど誹謗も大〉という考え方から,刑事事件ではやはり真実の証明による免責を認めないが,表現の自由の保障のために例外を多く認めている。東洋では,中国も漢代までは名誉毀損を罰しなかったが,唐律は〈罵詈(ばり)律〉を設けてこれを罰した。しかし,これは,身分が下の者が上の者をののしるのを罰するもので,身分的な名誉を保護するものであった。
日本では,奈良時代に律を継受したが,中世の武家時代には〈悪口(あつこう)〉が処罰された。これは,悪口が闘殺を起こし,治安を乱すという考えによるものであった。江戸時代には〈悪口〉の処罰はされなくなったが,悪口雑言に挑発されて人を殺傷した場合は刑が減免され,武士には〈切捨御免〉が認められた。日本の最初の近代的名誉法制は,イギリス法にならったといわれる1875年の〈讒謗(ざんぼう)律〉であるが,これには言論弾圧法としての性格が強かった。現行刑法は,旧刑法を経て,基本的にはこの規定を受け継いでいる。現行刑法は,当初真実の証明による免責をいっさい認めていなかったが,戦後の憲法改正によって表現の自由の保障が強化されたのに伴って,真実証明に関する規定(230条の2)が追加された(1947)。
現行刑法は公然と事実を摘示して人の名誉を毀損した者は,その事実の有無を問わず,3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金に処すとしている(名誉毀損罪。230条)。なお,本罪は親告罪である。名誉毀損罪でいう公然とは,不特定または多数の人の知りうる状態をいう。名誉とは名声すなわち人の社会的評価をいうと解されており,それを引き下げる事実を表示するのが名誉毀損である。名声を害するおそれがあれば犯罪が成立し,その意味で名誉毀損罪は危険犯だとされている。指摘された事実の有無を問わずに犯罪が成立するが,死者の名誉を毀損した場合だけは,わざと虚偽の事実を指摘したのでなければ犯罪にならない。もっとも,憲法21条は表現の自由を保障しており,国民は知る権利をもつ。知る権利の及ぶ事実は,人の名誉にかかわる事実であっても,公表が許されねばならない。そこで,刑法230条の2は,もっぱら公益を図る目的から公共の利害に関する事実を指摘したときは,事実が真実であることが証明されれば処罰しないものとしている。起訴されていない人の犯罪行為に関する事実は,公共の利害に関する事実とみなされるから,他の条件さえ満たされていれば,指摘しても罰せられない。公務員,公選による公職の候補者に関する事実を指摘したときは,真実であることが証明されさえすれば罰せられない。問題は,十分な根拠があって指摘したのに,たまたま裁判では真実と証明されなかった場合である。これを罰するのは酷であるし,黙っていたほうが安全というのでは表現の自由の妨げになる。判例は,事実を真実であると誤信し,そのことが確実な資料,根拠に照らして相当の理由があるときは,名誉毀損罪にならないとしている。なお,このほかにも,正当な利益を守るための言論や公正な評論などは,人の名誉にかかわるものでも,処罰されない。
→信用毀損罪 →侮辱罪 →プライバシーの権利
執筆者:平川 宗信
民事においては,名誉毀損は不法行為になるとされている(民法710条)。名誉毀損が成立するには,名誉毀損行為により被害者に対する社会的評価が低下することが必要であり,たんなる名誉感情の侵害だけでは不法行為とはならないとされている。さて名誉毀損に対する民事上の救済は古くから認められていたが,マス・メディアの発達した今日,名誉毀損による被害が激増しているため,その重要性がますます増大している。とくに問題となるのは新聞報道による名誉毀損の場合であり,ここでは被害者の人格権の保護と報道の自由とをどこで調和させるかが難問である。この点の判例・学説は,刑法230条の2(事実の証明)に準じて,報道が,公共の利害に関することについて,もっぱら公益を図る目的でなされたときは,大綱において真実の証明がなされれば不法行為が成立せず,また真実の証明がなされないときでも,報道側が真実と信ずるについて相当な理由がある場合(たとえば,警察当局の発表をそのまま記事にした場合)には,責めを免れることができるとしている。したがって,たんなる私行の報道については,対象が有名人であっても名誉毀損の成立する可能性が高い。また論評による名誉毀損に際しては,それが公正なものであれば名誉毀損は成立しない。名誉毀損に対する民事上の救済手段としては,(1)損害賠償,とくに慰謝料が中心である。日本では,慰謝料額が低いことが問題とされている。(2)謝罪広告(723条)も日本では重要な役割を果たしているが,これを強制することは〈思想および良心の自由〉(憲法19条)に反するおそれがあるので,慎重な配慮が必要である。(3)名誉毀損をするおそれのある出版の差止め(発売禁止)も,最近の判例の認めるところである。いったん名誉が毀損されると回復が困難なので,差止めの存在理由はあるが,これは裁判所による事前の検閲を意味するので,違法性の強度な場合にのみ例外的に認められるべきであろう。
執筆者:五十嵐 清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
各人がその品性、徳行、名声、信用などにつき一般の人から受けるべき声価(名誉)を侵害する行為、つまり、社会的評価を低下させる行為である。
[淡路剛久]
故意または過失によって人の名誉を害すると、民法上、不法行為が成立する(同法709条、710条)。たとえば、新聞や雑誌にある者の名誉を毀損する記事(スキャンダルなど)を載せた場合には、発表者の、あるいは発表者と編集者との不法行為の成立が問題となるが、一般に、その報道が公共性をもち、かつ真実が述べられている場合(このような証明を真実性の証明という)には、違法性がなくなると考えられている。死者の名誉毀損が認められるべきかが問題になることがあるが、判例はこれを認めず、遺族ないし近親者の名誉毀損あるいは敬愛追慕の情の侵害として処理している。名誉毀損を受けた場合、被害者は損害賠償とともに、あるいは損害賠償にかえて、名誉を回復するのに適当な処分(たとえば、新聞紙上に謝罪広告を掲載すること)を求めることができる(同法723条)。
[淡路剛久]
現行刑法は、第二編第34章の「名誉に対する罪」として、公然と事実を摘示し、人の名誉を毀棄する罪(同法230条1項)と侮辱罪(同法231条)とをあわせて規定している。社会生活を営むうえで社会的な評価が重要な意義をもつところから、刑法は社会的評価としての名誉を個人の人格的法益として保護しているのである。ただ、社会的評価のうち、支払意思や支払能力のような経済的評価については、別に信用毀損罪(同法233条前段)が設けられているので、これを毀損する場合は本罪の対象から除かれる。したがって、本罪の「名誉」は、上記の「信用」を除く人に対する社会的評価、たとえば品性、家格、各種能力等がこれに含まれる。なお、侮辱罪については、その保護法益が本罪と同様に社会的評価(外部的名誉)であるか名誉感情(自尊心、プライド)であるかが争われており、通説・判例は外部的名誉と解している。
本罪の行為は公然と事実を摘示することを要するが、「公然」とは不特定または多数人の認識しうる状態をいい、「事実を摘示する」とは人の社会的評価を低下させるように具体的に事実を告げることをいう。また、前記の事実は真実か否かを問わないし、公知の事実であってもよい。ただし、死者の名誉毀損に限り、「誣罔(ぶもう)」に出た場合、すなわち虚偽の事実を摘示する場合に限られる(刑法230条2項)。本罪に「名誉を毀損」するとは、人の名誉を現に低下させることを要せず、その危険を生じさせることで足りる(危険犯)。
ところで、現行憲法における表現の自由や民主主義の基礎である「国民の知る権利」に対応して、1947年(昭和22)の刑法一部改正により、「事実の証明」に関する第230条の二が新設された。本条1項によれば、かりに第230条1項の名誉毀損罪にあたっても、(1)「公共の利害に関する事実に係り」(事実の公共性)、(2)「その目的が専(もっぱ)ら公益を図ることにあったと認められる場合」(目的の公益性)、(3)「事実の真否を判断し、真実であることの証明があったとき」(真実性の証明)処罰しないものとされている。さらに、本条2項は、摘示された事実が「公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実」であれば、前述の3要件のうち事実の公共性が、また本条3項は、「公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合」は事実の公共性と目的の公益性がそれぞれ存在するものとされている。
[名和鐵郎]
日本の国際私法典である「法の適用に関する通則法」(平成18年法律第78号)第19条によれば、他人の名誉または信用を毀損する不法行為によって生ずる債権の成立および効力については、被害者の常居所地法(法人等の場合には主たる事業所の所在地法)によるとされている。このルールは、その地が被害者の名誉や信用が存在し、重要な地であると考えるとともに、結果発生地が多数の国に広がる場合に、それぞれの国での損害について各国法を適用することは煩雑であることを理由としている。
名誉または信用の毀損による不法行為の準拠法はこのように一応定められているものの、それが確定的に準拠法とされるわけではなく、不法行為の当時に当事者が法を同じくする地に常居所を有していたとか、当事者間の契約に基づく義務に違反して不法行為が行われたといった事情などに照らして、明らかにより密接に関係する他の地があるときは、当該他の地の法によるとされている(同法20条)。これは、最密接関係地法の適用を確保しようとする立法意思の表れであるが、不法行為の準拠法が明確にはわからず、たとえば和解交渉の際に前提となる法についての共通の認識がなく、交渉が難航するというデメリットがある。
不法行為の当事者は、不法行為後であれば、合意により不法行為の成立・効力の準拠法を変更することができる(同法21条本文)。ただし、その準拠法変更が第三者の利益を害することとなるときは、その変更をその第三者に対抗することができない(同条但書)。不法行為債権も財産権であることから、実質法上、当事者による処分が認められるのと同様に、国際私法上も、第三者の権利を侵害しない限り、準拠法の変更を認めてよいとの考えに基づくものである。しかし、この変更は黙示的にも(明示しなくても)可能であり、本来の準拠法がA国法であっても、和解交渉や訴訟において、両当事者がB国法を前提とする主張をしていると準拠法はB国法に変更されたとされる可能性があり、その変更によって不利益を被ることになる当事者から錯誤による変更であるとの主張が出てくるといった混乱も予想される。また、弁護士が代理しているとすれば、弁護過誤になるおそれもあることから、立法論としての批判もある。
不法行為は公益とのつながりが深いことから、外国法の適用が公序を害するおそれがあるとされ、「法の適用に関する通則法」第22条は、外国法が準拠法とされ、不法行為の成立が認められるときであっても、日本法上も不法行為になるのでなければ損害賠償等の請求は認めず(同条1項)、また、日本法上も不法行為となるときであっても、日本法上認められる損害賠償等しか請求することができないとされている(同条2項)。この規定により、日本のマスメディアは外国の政治家等に関する批判的な言論について、その政治家等の常居所地法によれば不法行為が成立するときであっても、日本法上適法とされる限りにおいて、問題とされることはないことになる。
[道垣内正人 2022年4月19日]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 四字熟語を知る辞典四字熟語を知る辞典について 情報
…全8条。〈讒謗〉とは,名誉毀損(きそん)を意味する〈讒毀〉と侮辱を意味する〈誹謗(ひぼう)〉をまとめた言葉(1条)。近代国家には個人の名誉保護の立法が必要だとした小野梓らのイギリス法研究グループ〈共存同衆〉の提出した建議を受けて,制定されたものとされる。…
…誹譏法とも書く。文書による名誉毀損の取締法をさし,印刷物,とくに新聞や雑誌の発達および言論出版の自由の発達と深くかかわりながらイギリスで発展した。15世紀ころから近代初期にかけては,政治的誹毀の取締りが中心で,国王に対する誹毀は反逆罪の一つとされていたが,18世紀に入ると,こうした政治的誹毀を〈治安妨害的誹毀seditious libel〉という特別の刑事犯罪とみる考え方が現れた。…
※「名誉毀損」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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