前浜村(読み)まえのはまむら

日本歴史地名大系 「前浜村」の解説

前浜村
まえのはまむら

[現在地名]南国市前浜

香長かちよう平野の南東部に位置する農漁村で、南は土佐湾を望む。村の南部を海岸線にほぼ並行して悪水川のうしろ(下島村・久枝村では前川とよぶ)蚊居田かいだ村から当村を経て下島しもじま村に流れる。香美郡に属し、「土佐州郡志」には「去高知東三里、東限下嶋村、西限改田村、南限海涯、北限上田村、東西十一町南北十三町」「里人煮潮網魚、海際路太嶮」とみえ、村内小村として下田しもた村を記す。

当村域は「和名抄」所載の田村たむら郷の地に比定され、中世田村庄(田村下庄)に含まれた。また承平四年(九三四)一二月二九日、紀貫之土佐国司の任を終えての帰京の途次、とどまって「おほみなとにとまれり、くすしふりはえて、とうそ、白散、さけくはへてもてきたり。こゝろざしあるににたり」(土佐日記)と記した大湊に比定される。


前浜村
まえはまむら

[現在地名]那珂湊市阿字あじうら

南は平磯ひらいそ村、東は海。北の村松むらまつ(現那珂郡東海村)に至る海岸は砂浜と砂丘が続く。

寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に五七五・三四四石「前浜村」とみえる。かつて砂丘地帯のほぼ中央、海に注ぐ沢田さわだ川周辺に大塚おおつか二亦ふたまた青塚あおつか三村があったが、元和三年(一六一七)頃大風が吹続いて家屋が埋没また倒壊したため住民は三分し、大塚村の人々は南方へ移住して前浜村と改めたと伝える(水府志料、前浜村誌)


前浜村
まえはまむら

[現在地名]富来町前浜

篠波ささなみ村の北に続く海辺の村。一時退転した村であったが、天正八年(一五八〇)領家町りようけまち恵光えこう寺にいた越前金津かなづ(現福井県金津町)の藤左衛門が、領主の許可を得て移住、漁業で村をおこしたという(羽咋郡誌)正保郷帳に村名はみえず、篠波村か深谷ふかたに村分に含まれたとみられるが不明。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高一五石、免六ツ四歩、小物成は猟舟櫂役二二五匁(うち出来二〇五匁)、網役六五匁、旅舟役三匁(ほかに退転八五匁)・三歩半口銭一〇三・六匁(出来)とある(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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