劉六劉七の乱(読み)りゅうろくりゅうしちのらん

改訂新版 世界大百科事典 「劉六劉七の乱」の意味・わかりやすい解説

劉六・劉七の乱 (りゅうろくりゅうしちのらん)

中国の明代,1510年(正徳5)から約2年間,河北省覇県に発生し,山東河南山西湖北,安徽,江蘇の7省にわたって展開された民衆反乱で,劉六と劉七はその首謀者の兄弟である。当時,貨幣経済と大土地所有の浸透する中で階層分解が進んだが,ことに宦官(かんがん)の異常な圧政に耐えきれず,全国各地に農民反乱が勃発した。劉六らは弓矢名手で最初捕盗役人だったが,やがて反乱の旗手となり,建国扶賢(国を建て直し賢者を助ける)というスローガンを作り,生員(インテリ)らを糾合して世直し一揆を行った。騎馬を主とした奇襲戦法と,拠点を作らない野営戦法が採られたため討伐されがたかった。これは反乱を指導した無頼(ごろつき)らの優れた武力と知恵そして横の連絡網とにより創出されたゲリラ戦法であり,明末の李自成の乱や,清末の捻軍の乱に踏襲された戦法の最初のものであった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「劉六劉七の乱」の意味・わかりやすい解説

劉六・劉七の乱
りゅうろく・りゅうしちのらん
Liu Liu Liu Qi; Liu Liu Liu Ch`i

中国,明代中頃,河北省に起った劉六,劉七兄弟を指導者とする農民反乱。正徳帝の初め,宦官劉瑾が政権を専断し収賄政治が横行し,地方の治安も乱れていた。劉瑾は捕盗御史の力などを利用して民衆を弾圧した。劉六,劉七はともに騎射に巧みであったので官憲から依頼され,捕盗に協力し功績があった。しかし劉瑾の部下に賄賂を要求され,それを拒んだために追われ,郷里の家族が捕えられたので,正徳5 (1510) 年覇州 (河北省) で政府に反旗を翻した。その勢力はたちまち数万となり,河北,山東,河南,江蘇,湖広各省を攻略した。明朝は遼東,大同方面の辺軍を使って同7年にようやく鎮圧した。

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