中国で19世紀半ば,太平天国と同時期に起こった華北の農民反乱。捻は安徽省北部の方言で一群の人々を意味する。康煕年間(1662-1722)から安徽北部を中心に山東,河南,湖北などで活動の知られる捻子(捻党)を起源とする。捻子は塩の闇取引や富豪襲撃などを業とする一種の遊俠集団であったが,災害や重税に苦しむ農民を吸収して勢力を増し,太平軍の北伐が行われるころから各地の小集団を連合,1855年(咸豊5)張洛行を盟主として清朝打倒の姿勢を示した。清朝は捻匪と呼んで弾圧を加えたが,57年以降陳玉成,李秀成の率いる太平軍と呼応して淮河(わいが)流域を転戦した。63年(同治2)安徽北部の根拠地を清軍に奪われたが,翌年頼文光の率いる太平軍残党と合流し,華北の清軍の中軸であったサンゴリンチン(僧格林沁)を山東で敗死させた。66年東西に分かれたが曾国藩の討伐作戦を破って華北各地を転戦,西捻軍は西北の回族反乱とも呼応した。しかし李鴻章の統率する淮軍,湘軍に包囲され,68年東西両軍ともに鎮圧された。
執筆者:並木 頼寿
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1850年代から60年代にかけて、中国の華北に広がった農民反乱軍。捻匪(ねんぴ)、捻党ともよばれた。捻とは一群の人々を意味する安徽(あんき)の方言で、17世紀後半から18世紀前半にかけて安徽北部を中心に活動した闇(やみ)塩売りなどの武装遊侠(ゆうきょう)集団を捻子(ニエンツ)といった。19世紀なかば前後に、災害や重税によって生存を脅かされた農民が大量に参加して勢力を拡大した。太平天国軍の北伐を機に、各地の捻子が連合し、1855年張楽(洛(らく))行を盟主(大漢盟主、一説に大漢明命王)として五旗からなる軍を編成し、淮河(わいが)流域各地を転戦して清(しん)軍と戦った。その後、張は太平天国の王号(沃王(よくおう))を受け、忠王李(り)秀成、英王陳玉成らと連携したが、独立性は保持し続けた。63年安徽北部の根拠地を失い、張は処刑された。しかし天京(南京)陥落後、捻軍は太平軍の残党頼文光の部隊と合流し、彼を首領として華北の清軍を苦しめた。66年東捻軍と西捻軍に分かれ、西捻軍は回族反乱軍と呼応して戦ったが、68年には東西両軍とも李鴻章(りこうしょう)の淮軍などに鎮圧された。
[小島晋治]
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捻匪(ねんぴ)ともいう。清末,1853年から68年まで淮北(わいほく)(安徽(あんき),河南,山東,江蘇の各省が境を接する地方)を中心に活動した農民の反乱軍。捻は「組」または「仲間」の意。元来は遊侠の集まりで,19世紀初めから淮北一帯で塩の密売や賭博(とばく),盗賊行為を働いていたが,1840年以後の不況や,あいつぐ災害のため窮乏した農民の参加によって,しだいに組織的な略奪集団に転化していった。特に53年太平天国が長江流域に進出してから,捻軍の勢力は急速に拡大し,55年には張楽行(ちょうがくこう)を盟主として,各地で集団の統合が進み,革命意識も生まれ,なかには太平天国と協同作戦をするものもあった。64年太平天国の滅亡以後も,捻軍の勢力は強大でしばしば清軍を撃破したが,李鴻章(りこうしょう)の率いる淮軍(わいぐん)に討伐された。
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