室町中期の連歌師(れんがし)。耕閑軒、相園坊と称した。会津の名族猪苗代(いなわしろ)家の出で、青年時代に関東流寓(りゅうぐう)中の心敬(しんけい)に師事して、多大の影響を受けた。1475年(文明7)ごろ上洛(じょうらく)し、宗祇(そうぎ)の支援を得て連歌師宗春として活躍を開始したが、のち兼載と改名した。89年(延徳1)北野会所奉行(ぶぎょう)、宗匠(そうしょう)に就任、宗祇およびその門下たちとともに、『新撰莵玖波集(しんせんつくばしゅう)』(1495)を編集した。晩年は主として関東に在住し、下総国(しもうさのくに)古河(こが)(茨城県古河市)に没した。享年は59歳と推定されている。その作品は、新鮮で鋭い感覚の句や知的な表現において特色を有するが、「霧に明けゆく志賀のから崎」の前句に、「秋の夜のながらの山に鐘なりて」と付けた、幽玄な風趣を有する句も詠んでいる。その句集に、『園塵(そののちり)』第1集~第4集、連歌論書に、『心敬僧都庭訓(そうずていきん)』『連歌延徳(えんとく)抄』『若草山』『梅薫(ばいくん)集』その他がある。その嗣子(しし)兼純(けんじゅん)は伊達(だて)家に仕え、その子孫の兼如(けんにょ)以後は代々、伊達家の連歌師として幕末に及んでいる。
[木藤才蔵]
『金子金治郎著『連歌師兼載伝考』(1962・桜楓社)』
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室町後期の連歌師。猪苗代氏。初名は宗春。会津の出身。青年期に東国へ流寓していた心敬,宗祇に学ぶ機会を持ち,20代の半ばころ京都へ出て活動し,38歳のとき北野連歌会所奉行となる。宗祇とともに《新撰菟玖波(つくば)集》の編集に当たり,1495年(明応4)完成するが,編集方針などで宗祇と確執があったことでわかるように,宗祇といろいろな意味で対立的な立場にあった。句集に《園塵(そののちり)》があり,連歌作品にも多く名をとどめている。
執筆者:奥田 勲
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