力石村(読み)ちからいしむら

日本歴史地名大系 「力石村」の解説

力石村
ちからいしむら

[現在地名]東津野村力石

烏出川からすでがわ村の西、力石川に沿って開けた村。地名について「土佐州郡志」は「村有石太重、人提之量力故名」と記す。また芳生野よしうの(尺尾越)の道普請の時、道の途中にあった大石を村の力持が担いで登り口に立てたので、この地を立石とも力石ともよぶようになったと伝える(東津野村史)

天正一六年(一五八八)の津野船戸村地検帳にみえる下力石名の地と推定され、地積四町余、ヤシキ一七筆。船戸村と同じく「公領」の記載はないが津野氏直轄地と考えられ、戸田大炊介の次弟蔵介と末弟掃部の扣地となっている。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)に「津野力石口 御具足前ニ不引 庄屋中」とあり、長宗我部氏時代に番所のあったことがわかる。


力石村
ちからいしむら

[現在地名]豊田市力石町

矢作川上流部の広梅橋から南に一キロほど下った地点にあり、国道一五三号(飯田街道)に沿っている。力石川が国道に沿って、勘八かんぱち山で矢作川に合流する。近世初めは幕府領、慶安四年(一六五一)大島おおしま陣屋(現東加茂郡足助町)石川備中守知行となり明治に至る。享保八年(一七二三)の力石村との山論につき中金村返答書(沢田陽一家文書)によると、中金なかがね村境の御林は、将軍家の御林山で、御用割木切出しの奉行を石川家に任されていたことがわかる。

また、元文三年(一七三八)の勘八山御林につき力石村民連判一札(同文書)によると、御料林勘八山を石川家が監護しており、草木の採取禁止を力石村に誓約させている。


力石村
ちからいしむら

[現在地名]上山田町力石

西は新山あらやま山田やまだ、南は上平うわだいら上五明かみごみよう(現埴科郡坂城町)に接し、東は千曲川を隔てて坂木さかき(現埴科郡坂城町)に臨む。

力石の村名は千曲川の洪水が運んだ巨石によって里人が膂力を競ったことと、巨石崇拝の信仰に由来するという口碑がある。

村は村上氏から出た出浦氏が開拓し、ここに分地して力石を称したとされている。文禄元年(一五九二)六月一一日の上杉景勝の朱印状(覚上公御代御書集)には「依于抽令嗣助次郎長範父子忠勤、肥州名護屋御陣御旅中、於信州食録知賜御朱印、今般於信州力石村・五妙村・舟山村出之候」とあって、力石村等の地をを家臣平田輔範に宛行っている。


力石村
ちからいしむら

[現在地名]丹後町力石

竹野川の支流力石川の上流に位置し、標高一八〇メートル前後の山の斜面にある。

中世末の丹後国御檀家帳に「ちからいしの里 家六拾軒斗」とあり、井上五郎左衛門・中の孫助など六名の名が記される。当時は栄えた村のようである。慶長検地郷村帳には村名がみえず、延宝三年郷村帳に「吉永村力石」高九八・四四七石と出るので、それ以前は吉永よしなが村の内であったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android