石橋山の戦(読み)いしばしやまのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「石橋山の戦」の意味・わかりやすい解説

石橋山の戦 (いしばしやまのたたかい)

1180年(治承4)8月,相模石橋山(小田原市南西部)で平氏方の大庭景親らが源頼朝の軍を破った戦闘。この月17日伊豆の北条に挙兵した頼朝は,同国目代(もくだい)山木兼隆を討ち,平氏討滅の緒戦を飾ったが,従う兵はまだ少なく,駿河方面からの圧迫も加わった。そのため頼朝は,源氏累代の家人であり,水軍を通じて近隣沿岸諸国の武士団と広い関係を有する三浦氏と合流しようとし,20日北条時政ら伊豆・相模の武士を率いて伊豆国を進発,途中駿河国東部の兵も加わり,23日石橋山に300騎をもって布陣した。一方,平氏の命を受けて頼朝討伐の準備を進めていた相模の大庭景親は,23日夕数千騎の精兵を擁して石橋山の頼朝軍を強襲した。また伊東祐親300騎の軍も頼朝勢を追尾し,これを挟撃しようとしていた。頼む三浦の大軍との合流を阻止された頼朝勢は大敗を喫し,頼朝は景親方の武士飯田家義の助けによって,夜陰暴風雨のなかをからくも椙山(すぎやま)にのがれたが,翌日景親軍の急追を受け,さらに深山に退いた。ここでも彼は,敵軍中にあった梶原景時のはからいで九死に一生を得,一時箱根権現別当行実のもとにかくまわれたのち,25日箱根山中から土肥郷脱出,28日には海路安房に渡り,再挙をはかることになった。石橋山の戦で頼朝方の陸上兵力は大打撃をこうむったが,三浦の水軍を温存し,景時ら水軍関係者の内応を得たことが,この転進と再挙を可能にしたと考えられる。
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百科事典マイペディア 「石橋山の戦」の意味・わかりやすい解説

石橋山の戦【いしばしやまのたたかい】

源頼朝挙兵後最初の合戦。1180年相模(さがみ)国足柄下(あしがらしも)郡石橋山(神奈川県小田原市)で頼朝と平家方の大庭景親(おおばかげちか)らが戦ったが,頼朝は大敗,海路安房(あわ)にのがれ再挙をはかった。
→関連項目伊東祐親梶原景時千葉常胤

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「石橋山の戦」の解説

石橋山の戦
いしばしやまのたたかい

1180年(治承4)8月,相模国石橋山(現,小田原市)で大庭景親(おおばかげちか)率いる平氏方の軍と源頼朝の間で行われた戦。同月17日,伊豆国目代山木兼隆を破った頼朝は,相模国の三浦氏との連携を求めて東進。これに対し大庭景親は,熊谷直実ら平氏方武士3000余騎を率い,伊豆の伊東祐親の300余騎と頼朝を挟撃。同月23日,石橋山の戦闘は平氏方が大勝し,翌日には頼朝追跡が展開された。土肥実平らに導かれた頼朝は箱根山にのがれ,真鶴(まなづる)から海路安房国へ渡り,有力豪族の上総介(かずさのすけ)広常・千葉常胤(つねたね)らを味方とし,再起に成功。

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世界大百科事典(旧版)内の石橋山の戦の言及

【三浦氏】より

…1180年(治承4)源頼朝の伊豆挙兵も,三浦氏の荷担があって初めて実現しえた。実際には,おりからの豪雨で河川が増水し三浦一族の到着が遅れたため,頼朝は石橋山の戦に敗れたが,その頼朝が海路を安房へのがれることができた背景には,海上権を握る三浦氏の尽力があった。石橋山ののち三浦一族も三浦衣笠(きぬがさ)城に敗れ,義明が戦死,子義澄(よしずみ)以下は安房へ渡って頼朝に合流し,幕府草創に参画した。…

※「石橋山の戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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