加藤正(読み)かとうただし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「加藤正」の意味・わかりやすい解説

加藤正
かとうただし
(1906―1949)

マルクス主義哲学者。徳島県生まれ。戦前戦後を通じて一貫して共産主義運動に従事し、非転向を貫いた。京都帝国大学文学部卒業。処女論文は1930年(昭和5)に発表された「三木哲学に対する覚書」(『プロレタリア科学』同年8月号)と「弁証法的唯物論への道」(『思想』同12月号、筆名山野幸夫)。彼はそこで、昭和初期の日本共産党に絶大な影響力を振るっていた福本イズム、すなわち福本和夫(ふくもとかずお)の「全無産階級的政治闘争主義意識」批判と、三木清の主張する「無産階級的基礎経験」といった階級的主観主義を批判した。1930年か1931年に日本共産党に入党。その後、唯物論研究会にも参加して、永田広志(ながたひろし)らと理論の「党派性論争」や「主体性論争」を展開した。また、戦時下に数回にわたって官憲検挙されるが、ひるまずに党活動を続けた。戦後、病躯(びょうく)にむち打って党の再建活動に挺身(ていしん)したが、戦争中からの結核がもとで43歳で病没。唯物論者加藤の基本的関心は、真の唯物論哲学の確立にあり、「労働者運動の理論および綱領としての現代唯物論と科学的社会主義」(レーニン)たるマルクス主義の実現のための認識論(「思惟(しい)の法則」)を明らかにすることにあった。

[西田 毅 2016年8月19日]

『山田宗睦編『加藤正全集』全2巻(1963・現代思潮社)』『デートン・ミラー著、加藤正訳『火花・稲妻・宇宙線』(1943・三省堂)』『F・エンゲルス著、加藤正他訳『自然弁証法』(岩波文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「加藤正」の解説

加藤 正
カトウ タダシ

昭和期の哲学者,評論家



生年
明治39(1906)年2月11日

没年
昭和24(1949)年2月3日

出生地
徳島県

学歴〔年〕
京都帝大独文学科卒

経歴
京大在学中の昭和4年、加古祐二郎とリヤザノフ版エンゲルス「自然弁証法」を共訳。5年、プロレタリア科学研究所京都支部設立に参加、論文「三木哲学に関する覚え書」「弁証法的唯物論への道」で福本イズムと三木哲学の階級的主観主義を批判。6年に上京、安田徳太郎らと「ソヴェート友の会」を設立。京大卒業の7年、共産党入党、唯物研究会にも参加。8年「わが弁証法的唯物論の回顧と展望」「エンゲルスと自然科学」を「唯物研究」に発表、唯研内部で、非党員の唯研主流から党派性理論に反すると批判された。同年11月、検挙で本人不在のまま総括討議に付され加藤理論は否定された。11年京大大学院に入り死去するまで在籍。12年、春日庄次郎らの日本共産主義者団に参加、13年逮捕された。戦後は兵庫県神出村で細胞新聞「神出新聞」を出し党活動に専念したが、加藤理論はマルクス主義哲学内部から入れられなかった。遺稿「弁証法の探究」「加藤正全集」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤正」の解説

加藤正 かとう-ただし

1906-1949 昭和時代の哲学者。
明治39年2月11日生まれ。昭和6年安田徳太郎らと「ソヴェート友の会」を結成。このころ共産党に入党。のち唯物論研究会に参加,主観主義的なマルクス主義把握を批判して永田広志らと党派性論争や主体性論争を展開。戦時下に検挙されたが,戦後,党再建に努力。昭和24年2月3日死去。44歳。徳島県出身。京都帝大卒。著作に「弁証法の探究」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「加藤正」の解説

加藤 正 (かとう ただし)

生年月日:1906年2月11日
昭和時代の哲学者;評論家
1949年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android