粟生村(読み)あおむら

日本歴史地名大系 「粟生村」の解説

粟生村
あおむら

[現在地名]箕面市粟生新家あおしんけ粟生外院あおげいん粟生間谷あおまたに茨木いばらき粟生岩阪あおいわさか

外院村の東から北に広がる大村。村域のほとんどが山地で、北西山中に源をもつ勝尾寺かつおじ川が南東流する。平坦部は村の南部、勝尾寺川が山地から流出する辺りに扇状地形で存在する。集落は勝尾寺川沿いに点在する。村名は康治元年(一一四二)一二月二四日の佐伯小犬丸譲状(勝尾寺文書)に「島下郡中条粟生村」とみえ、古くから開かれた地であった。

〔中世〕

中世の当村は近衛家垂水東たるみのひがし牧に属し、東は宿久すく(現茨木市)、北は泉原いずはら(現同上)、南は萱野かやの、西は右馬寮豊島てしま牧に接していた。本来は摂津国衙の支配する公領の村であったが、平安中期に摂関家領垂水牧が成立するに伴って同東牧の加納田とされ、国衙と摂関家の双方の支配を受けるようになった。平安末期、垂水東牧は藤原一門の氏神奈良春日社に寄進され(寿永三年二月一八日「後白河院庁下文案」春日大社文書)、近衛家を本所とする春日社領庄園になり、鎌倉時代の粟生村は国衙所当とともに春日社への年貢も納めていた(寛元三年二月日「橘某田地売券」勝尾寺文書、以下同文書については個別文書名のみ記す)。また村内に総持そうじ(現茨木市)の所領田地も散在しておりそれらを一括して総持寺領粟生庄(延文四年一〇月日総持寺領粟生庄年貢納帳)、あるいは粟生庄総持寺田(同年粟生庄総持寺田坪付)などと称していた。なお近衛家領の関係で、近衛殿右馬亮領の粟生庄が鎌倉末の史料にみえる(正応二年三月日清水坂舜静院住侶等申状案)。しかし粟生村そのものは独立した庄園ではなく、粟生村という村名が、土地売券などで用いられる公的呼称であった。なお中世当村に成立した山門領外院庄は、当村から分立・立庄されたものと考えられる。

粟生村は島下しましも郡の西端に位置し、同郡の条里制地割が中世にも残っており、一一条一里・二里・三里、一二条一里・二里一帯が村域で(欠年一二月日粟生村名田坪付帳・延文四年粟生庄総持寺田坪付)、一一条二里には粟生村と宿久村(現茨木市)の田地が存在し、その二五坪、二六坪辺りに両村の境界があった(建長三年一二月日僧慶重畠地売券)。村内はさらに幾つかの小村に分れ、粟生小野村(嘉禎元年一一月三日源正助田地売券)、粟生中村(延文二年一二月三日忍阿弥陀仏田地売券)などが史料に散見。また田地は名を支配の単位としており、金丸名・光吉名・小犬名・四郎丸名・熊丸名・行光名・守依名・正任名・則道名・松成名・守武名・永久名・得一名・福永名などの名田に編成されていた(粟生村名田坪付帳)


粟生村
あおむら

[現在地名]九十九里町粟生、東金市粟生飛地あおとびち

片貝かたかい村の南に位置し、南東は九十九里浜に面する。粟生丘あおおか・粟生新田・粟生納屋の集落がある。上粟生村・下粟生村に分けて記載される場合もある。「和名抄」に記載される山辺やまべ禾生あお郷の遺称地とされる。応永二七年(一四二〇)一二月二一日、鎌倉公方足利持氏は鎌倉浄光明じようこうみよう寺の支院である玉泉ぎよくせん院の末寺「粟宇郷内真珠寺」などの諸公事免除を安堵し、守護代・検断方の妨げを禁止している(「鎌倉公方足利持氏御教書」浄光明寺文書)。粟宇郷は当地辺りとする説と松之郷まつのごう(現東金市)一帯とする説がある。

文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二四六石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では大沼組に属する粟尾がみえ、高二二二石、与力給知。与力は江戸北町奉行組与力で、元和五年(一六一九)より幕末まで同給知(「北町奉行組与力給知石高覚」飯高家文書など)。延宝五年(一六七七)皆済目録(同文書)によると、年貢は上粟生村三七四俵余・下粟生村八八俵・稗田分七俵余・新田分一三俵余などで(うち江戸納め四一一俵、運賃米八俵余)、ほかに口米四俵余、野銭・萱代・船役六艘分金二両一分などを納めている。


粟生村
あおむら

[現在地名]小野市粟生町

万願寺まんがんじ川が加古川に合流する付近を南端として、南は西脇にしわき村、東は加古川を境にはた村・敷地しきじ新田。広大な低地に立地し、南から大畑おばたけ下条しもじよう岡条おかじよう森条もりじよう立町たてまち鍵町かぎまち北条きたじよう池向いけのむかいの垣内がある。初め姫路藩領、寛保二年(一七四二)幕府領となる(正保郷帳、貞享元年「本多忠国領知目録」本多家文書、寛延四年「酒井忠恭領知目録」酒井家史料など)。天明二年(一七八二)大坂城代・上野宇都宮藩戸田氏領、同八年幕府領となり、文政一〇年(一八二七)以降は下総古河藩領と幕府領の相給地となる(以上「河合家由緒書」河合家文書)

慶長国絵図に「あをう村」「あをのかちや」とみえる。正保郷帳では田方八〇二石余・畑方一〇四石余。天保郷帳では高一千二一〇石余。


粟生村
あおむら

[現在地名]寺井町粟生

河原新保かわらしんぼ村の西、手取川下流南岸に位置。北陸街道が通り宿駅であった。「白山之記」は加賀国八社の一として熊田くまた神社をあげ、その所在地を「粟」としている。熊田神社は「延喜式」神名帳にみえる能美郡八座の一で、その後身と称する同名社が現根上ねあがり町の南東端にあり、当地に近いので、「粟」は粟生であるかもしれない。竹松隼人覚書(富樫観智物語)によれば、天正八年(一五八〇)織田信長勢の柴田勝家が加賀へ侵攻したとき、一向一揆勢は「水島・粟生野」の手取川河原でこれを迎え討ったという。

江戸時代は加賀藩領であったが、寛永一六年(一六三九)から万治二年(一六五九)までは越中富山藩領。


粟生村
あおうむら

[現在地名]大豊町粟生・佐賀山さがやま上東かみひがし

吉野川の支流南小川みなみこがわの北岸にあり、大平おおだいら村と接する山村。「土佐州郡志」は「東西十五町南北二十町」とし、村内の小村として嵯峨山さがやま・上東を記す。村名は「粟尾」とも記される。地名は古く粟を栽培した地であったことにちなむという。村内定福じようふく寺の鰐口の明徳二年(一三九一)一二月二日付の銘に「粟生村」とみえる。

天正一六年(一五八八)の豊永地検帳では「粟生村」として、検地面積四町二反八代二歩、うち田分一町二八代一歩、畠分一町八反二七代二歩、屋敷一四(寺を含む)および堂床(阿弥陀堂)一で一町三反二代五歩。


粟生村
あおうむら

[現在地名]鹿島町粟生

鹿島灘沿岸にあり、北東は平井ひらい村、西は谷津田を境に木滝きたき村。鎌倉初期、常陸大掾氏一族の鹿島三郎政幹は神宮惣追捕使職に任ぜられ(「吾妻鏡」治承五年三月一二日条)、当地に居住したといわれ、文永三年(一二六六)五月一一日の諸神官補任之記(鹿島神宮文書)には「治承年中源頼朝、鹿嶋三郎政幹於被補当社之神職(中略)当郡宮本郷居住粟生里」とある。


粟生村
あおむら

[現在地名]長岡京市粟生

現長岡京市の西北部に位置する。光明こうみよう寺背後の山より同門前の平地部を占める。西山にしやまの一部をなし、古くは荒野・山野であったと思われる。鎌倉後期成立の法然上人絵伝に、京都東山大谷ひがしやまおおたにの法然の墓所が延暦寺衆徒によって破却された「嘉禄の法難」ののち、「翌年安貞二年也、正月廿五日の暁更に、西山の粟生野の幸阿弥陀仏のもとにわたしたてまつりて荼毘をなす、(中略)いまの光明寺これなり」と記される。

江戸時代の村高一六七石余は、万里小路家領一六六石余、幕府領一石弱からなる(享保一四年山城国高八郡村名帳)。明治一〇年代の「京都府地誌」は、字地として「弁天芝・清水谷・北開キ・六反田・長通・西条・内西条・梶ヶ前・田内・畑个田・川久保」を記す。


粟生村
あおむら

[現在地名]羽咋市粟生町

羽咋村の南に位置し、東部は千里浜ちりはま砂丘、西部は邑知おうち平野。中世には粟生保の内。戦国期に一宮寺家いちみやじけに住し、上杉謙信に滅ぼされた粟生七郎の本貫地と伝える(能登志徴)。正保郷帳に村名がみえ、高二九八石余、田方一三町四反・畑方六町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三二三石、免四ツ四歩、小物成は山役一五四匁、鳥役六匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細によると高三三四石、免は同じ、家数五五(うち頭振一八)・人数三〇一、馬六。安政三年(一八五六)の甘田組巨細帳(桜井文書)によれば、用水は長者ちようじや川から取水。


粟生村
あおむら

[現在地名]清水町粟生

現清水町域を蛇行西流する有田川の町内最下流域の山間部に位置する。東は中原なかはら村、西は岩野河いわのがわ(現金屋町)、北は二川ふたかわ村、南は宇井苔ういこけ(現金屋町)と接する。慶長検地高目録によれば村高一五五石余、小物成三石九斗二升八合。天保郷帳では一八八石余。石垣組に属し、「続風土記」は家数一〇五、人数四九五、社寺として岩倉いわくら明神社(現岩倉神社)、小祠四(妙見社・若宮祇園社など)吉祥きつしよう寺・浄土宗鎮西派東福とうふく寺を記す。


粟生村
あおむら

[現在地名]大台町粟生

上楠かみぐす村の西、宮川の左岸にある。村の中央を熊野街道が通る。「神鳳鈔」に「粟井御薗一石、十二月」とあり、中世は伊勢神宮領が成立していた。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「粟生村」と記されている。熊野街道の要所として伝馬所が置かれ、明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば「御伝馬役高百石分御免」となっていた。伝馬所については「御伝馬所役馬拾壱疋 馬継」として「阿曾村へ三里半 天ケ瀬村へ四里 前村へ三里 相鹿瀬村へ三里」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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