日本歴史地名大系 「勝見村」の解説 勝見村かつみむら 福井県:福井市福井城下勝見村[現在地名]福井市御幸(みゆき)一―二丁目・勝見一―三丁目福井城の東南、新(あら)川の東側にあり、新川に架かる勝見橋御門外の大野街道口に発達した町屋は上(かみ)町・中(なか)町・下(しも)町・横(よこ)町の四ヵ町で(越前国名蹟考)、城下と町続きとなる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高五七三・七一石とある。正保郷帳によると、田方一八〇石余・畠方三九三石余。町の北側には乗国(じようこく)寺(曹洞宗)・本証(ほんしよう)寺(真宗大谷派)、町の南側には真楽(しんらく)寺(浄土真宗本願寺派、昭和四四年花野谷に移転)・長休(ちようきゆう)寺(真宗大谷派)のほか村中(むらなか)・川下(かわしも)などの村方集落が続き、組屋敷や狛杢下屋敷も置かれていた。 勝見村かつみむら 新潟県:三島郡出雲崎町勝見村[現在地名]出雲崎町勝見町域南端に位置する日本海沿いの海岸集落。「義経記」巻七に「米山を沖懸に三十三里のかりやはまかつき」とある「かつき」を当地に当てる説がある。正保国絵図は高七〇石余で幕府領。延宝三年(一六七五)に検地があり、総反別三町余・分米二二石五斗余と野手高一石二斗を検出(「出雲崎編年史」所収出雲崎町役場文書)。 勝見村かつみむら 福井県:福井市旧吉田郡地区勝見村[現在地名]福井市河合勝見(かわいかつみ)町網戸瀬(あどせ)村の西に位置する。慶長九年(一六〇四)一一月一二日付の多賀谷三経宛結城秀康知行宛行状(多賀谷文書)に村名がみえるが、同一一年頃の越前国絵図では川合(かわい)庄に含まれていたと思われる。正保郷帳によると田方五五四石余・畠方八〇石。福井藩領で、正保二年(一六四五)から延宝二年(一六七四)まで吉江藩領、以降再び福井藩領となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by