勝長寿院跡(読み)しようちようじゆいんあと

日本歴史地名大系 「勝長寿院跡」の解説

勝長寿院跡
しようちようじゆいんあと

[現在地名]鎌倉市雪ノ下四丁目

阿弥陀山勝長寿院と号する宗旨未詳の浄刹大御堂・南御堂とも称し、ゆきした大御堂ヶ谷が寺跡と伝え、現在は跡碑が建っている。源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建て、当時は鶴岡八幡宮寺・永福ようふく寺とともに三大寺院の一つに数えられた。源氏の菩提寺的存在で、鎌倉幕府や関東公方の保護によって寺勢を維持したが、関東公方足利成氏が康正元年(一四五五)駿河今川範忠に攻められて鎌倉を去ると、徐々に衰えていった。

吾妻鏡」によると元暦元年(一一八四)一一月二六日に頼朝自身が選定したこの地に臨み地曳始を行い、文治元年(一一八五)二月一九日に事始、四月一一日に立柱、九月三日に義朝と鎌田正清の首が埋葬された。本堂には藤原為久が描いた浄土瑞相と二十五菩薩の壁画が完成し(一〇月一一日条)、成朝作の本尊・丈六皆金色の阿弥陀如来像が安置され(一〇月二一日条)、一〇月二四日に堂供養が盛大に行われた。しかし、当初の規模は堂と門だけの構えであったらしく、元久二年(一二〇五)六月二八日条に至り初めて弥勒堂の名がみえる。とはいえ、同書によると義朝追善供養や後白河法皇四十九日仏事など、しかるべき供養には供僧(一三口か)が奉仕し、鶴岡供僧との交流があったことや、御家人が寺に宿直し警備していたこと、実朝など将軍は毎年末に義朝の廟所である当院に墓参していたことなどが知れ、また建久五年(一一九四)一二月二日には大江広元・梶原景時ら四人の寺奉行も置かれ、頼朝が鎌倉で最初に建てた浄刹として大事にされ、相応の役割を果していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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