北ドイツ連邦(読み)キタドイツレンポウ(英語表記)Norddeutscher Bund

デジタル大辞泉 「北ドイツ連邦」の意味・読み・例文・類語

きたドイツ‐れんぽう〔‐レンパウ〕【北ドイツ連邦】

普墺ふおう戦争ののち、1867年、マイン川以北の22のドイツ諸邦がプロイセン中心に結成した連邦。1871年のドイツ帝国成立基礎となった。

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精選版 日本国語大辞典 「北ドイツ連邦」の意味・読み・例文・類語

きたドイツ‐れんぽう‥レンパウ【北ドイツ連邦】

  1. ( [ドイツ語] Norddeutscher Bund の訳語 ) 一八六七年、プロイセンを中心にマイン川以北の二二か国が結成した連邦。プロイセン‐オーストリア戦争に大勝したプロイセンが、オーストリアを除くドイツの統一というビスマルク小ドイツ主義を実現したもの。のちのドイツ帝国成立の基盤となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「北ドイツ連邦」の意味・わかりやすい解説

北ドイツ連邦 (きたドイツれんぽう)
Norddeutscher Bund

1867年,普墺戦争勝利したプロイセンを中心に,マイン川以北の22のドイツ諸邦によって北ドイツ連邦が組織された。連邦を構成する各支邦は高い独立性を保持したが,プロイセンの権勢は強く,連邦首長にはプロイセン王が,宰相にはプロイセン首相ビスマルクが就任し,最高決議機関である連邦参議院において,全43票のうち17票をプロイセンが保持した。連邦国会普通選挙によったが,その権限は制限されていた。さらに南ドイツ諸邦は攻守同盟関税同盟によって,プロイセンと北ドイツ連邦に軍事的経済的に結びつけられ,オーストリアを除外したドイツ統一(小ドイツ主義)の基本レールが敷かれた。71年,普仏戦争の勝利ののち,これらの南ドイツ諸邦が北ドイツ連邦に加入し,北ドイツ連邦憲法は若干の名称変更と補正をともなっただけでドイツ帝国憲法となり,北ドイツ連邦はドイツ帝国へ発展的解消を遂げた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北ドイツ連邦」の意味・わかりやすい解説

北ドイツ連邦
きたどいつれんぽう
Norddeutscher Bund ドイツ語

プロイセン・オーストリア戦争(1866年6~8月)後、1867年、プロイセンを中心に、オーストリアと南ドイツ諸邦を除くマイン川以北の22のドイツ諸邦によって組織された連邦。プロイセンは、すでに66年8月、北部、中部のドイツ諸邦と同盟を結び、共通の憲法の制定を約束していたが、プラハ条約によって従来のドイツ連邦が解体されると、同盟諸邦を指導して67年7月、新連邦を発足させた。連邦憲法によれば、プロイセン王が連邦首長として軍事、外交権を握り、彼の任命する連邦宰相が首長に対してのみ責任を負うものとされた。中枢機関としての連邦参議院は、各邦の代表からなり、プロイセンが圧倒的な票数を握って立法権など強大な権限を有していたのに対し、普通選挙に基づく連邦議会の権限は制約されていた。連邦は国家の連合ではなかったが、完全な統一国家でもなく、70~71年、南ドイツ諸邦をも加えてドイツ帝国へ受け継がれた。

[松 俊夫]

『山田晟著『ドイツ近代憲法史』(1963・東京大学出版会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北ドイツ連邦」の意味・わかりやすい解説

北ドイツ連邦
きたドイツれんぽう
Norddeutscher Bund

プロシア=オーストリア戦争後プロシアを中心に成立した連邦。 1867年プロシア=オーストリア戦争に勝利を得たプロシアは,オーストリアと結んだハノーバー,ヘッセン,ナッサウ,フランクフルトを併合し,ドイツ連邦を解体して,オーストリアおよび南ドイツ4ヵ国を除くマイン川以北 22国の君主連合体を組織し,みずからその盟主となった。連邦諸国の内政については自治権が認められたが,軍事,外交の全権は連邦首長たるプロシア王の手に掌握された。連邦議会は連邦参議院と国会とから成り,普通選挙による国会の権限は小さく,各邦の代表者から成る連邦参議院の諮問機関にすぎなかった。この連邦参議院の議長はビスマルクであった。フランス=オーストリア戦争中の 71年 11月南ドイツ4ヵ国が加入し,71年ドイツ帝国の成立とともに北ドイツ連邦は発展的解消をとげた。

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百科事典マイペディア 「北ドイツ連邦」の意味・わかりやすい解説

北ドイツ連邦【きたドイツれんぽう】

普墺戦争の後,1867年プロイセンを盟主として,22の北ドイツ諸邦によって結成された連邦。軍事・外交の全権は連邦議長たるプロイセン国王の手に帰し,男子普通選挙に基づく国会の権限は僅少で,立法権と行政権をもつ連邦参議院ではプロイセンが総投票数の3分の1以上を独占。1871年ドイツ帝国の成立とともに発展的解消。
→関連項目小ドイツ主義

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「北ドイツ連邦」の解説

北ドイツ連邦(きたドイツれんぽう)
Norddeutscher Bund

プロイセン‐オーストリア戦争後,勝利を得たプロイセンの指導下に,オーストリアおよび南ドイツ諸国を除いて,マイン川以北の22のドイツ諸邦で組織された連邦(1867年)。1871年のドイツ統一への足場となった。プロイセン王を連邦主席とし,連邦国会と連邦参議院を持ち,国会は普通選挙によったが,その権限は限られ,主要な統治権はプロイセン王の手に委ねられていた。ドイツ統一の完成とともに発展的解消をした。

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旺文社世界史事典 三訂版 「北ドイツ連邦」の解説

北ドイツ連邦
きたドイツれんぽう
Norddeutscher Bund

普墺 (ふおう) 戦争の結果,1867年プロイセンを中心に北ドイツの22か国が結成した連邦
関税同盟が政治的に発展したもので,オーストリアのほか,南ドイツ4か国は不参加であったが,1870年南ドイツが参加し,71年ドイツ帝国の成立とともに発展的に解消した。

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世界大百科事典(旧版)内の北ドイツ連邦の言及

【普墺戦争】より

…プロイセン軍はオーストリア軍をボヘミアのケーニヒグレーツKöniggrätzの戦で破って大勢を決し,大方の予想を裏切り,戦いはわずか7週間で決着がつけられた。プラハの和約(1866年8月23日)によってオーストリアはドイツから排除され,さらに北ドイツ連邦の成立(1867)によってプロイセン中心のドイツ統一事業は大きく前進した。 この戦争はプロイセン陸軍史においても画期的意義をもった。…

※「北ドイツ連邦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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