1867年,普墺戦争に勝利したプロイセンを中心に,マイン川以北の22のドイツ諸邦によって北ドイツ連邦が組織された。連邦を構成する各支邦は高い独立性を保持したが,プロイセンの権勢は強く,連邦首長にはプロイセン王が,宰相にはプロイセン首相ビスマルクが就任し,最高決議機関である連邦参議院において,全43票のうち17票をプロイセンが保持した。連邦国会は普通選挙によったが,その権限は制限されていた。さらに南ドイツ諸邦は攻守同盟と関税同盟によって,プロイセンと北ドイツ連邦に軍事的経済的に結びつけられ,オーストリアを除外したドイツ統一(小ドイツ主義)の基本レールが敷かれた。71年,普仏戦争の勝利ののち,これらの南ドイツ諸邦が北ドイツ連邦に加入し,北ドイツ連邦憲法は若干の名称変更と補正をともなっただけでドイツ帝国憲法となり,北ドイツ連邦はドイツ帝国へ発展的解消を遂げた。
執筆者:望田 幸男
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プロイセン・オーストリア戦争(1866年6~8月)後、1867年、プロイセンを中心に、オーストリアと南ドイツ諸邦を除くマイン川以北の22のドイツ諸邦によって組織された連邦。プロイセンは、すでに66年8月、北部、中部のドイツ諸邦と同盟を結び、共通の憲法の制定を約束していたが、プラハ条約によって従来のドイツ連邦が解体されると、同盟諸邦を指導して67年7月、新連邦を発足させた。連邦憲法によれば、プロイセン王が連邦首長として軍事、外交権を握り、彼の任命する連邦宰相が首長に対してのみ責任を負うものとされた。中枢機関としての連邦参議院は、各邦の代表からなり、プロイセンが圧倒的な票数を握って立法権など強大な権限を有していたのに対し、普通選挙に基づく連邦議会の権限は制約されていた。連邦は国家の連合ではなかったが、完全な統一国家でもなく、70~71年、南ドイツ諸邦をも加えてドイツ帝国へ受け継がれた。
[松 俊夫]
『山田晟著『ドイツ近代憲法史』(1963・東京大学出版会)』
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プロイセン‐オーストリア戦争後,勝利を得たプロイセンの指導下に,オーストリアおよび南ドイツ諸国を除いて,マイン川以北の22のドイツ諸邦で組織された連邦(1867年)。1871年のドイツ統一への足場となった。プロイセン王を連邦主席とし,連邦国会と連邦参議院を持ち,国会は普通選挙によったが,その権限は限られ,主要な統治権はプロイセン王の手に委ねられていた。ドイツ統一の完成とともに発展的解消をした。
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…プロイセン軍はオーストリア軍をボヘミアのケーニヒグレーツKöniggrätzの戦で破って大勢を決し,大方の予想を裏切り,戦いはわずか7週間で決着がつけられた。プラハの和約(1866年8月23日)によってオーストリアはドイツから排除され,さらに北ドイツ連邦の成立(1867)によってプロイセン中心のドイツ統一事業は大きく前進した。 この戦争はプロイセン陸軍史においても画期的意義をもった。…
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