北山宮(読み)きたやまのみや

日本歴史地名大系 「北山宮」の解説

北山宮
きたやまのみや

[現在地名]上北山村大字小橡字谷口

栃本とちもと集落の南に鎮座祭神は北山宮。旧県社。吉野神宮(現奈良県吉野町)の境外摂社である。北山宮は後亀山天皇玄孫とされ、当地方では尊秀王または自天王、一ノ宮とよぶ。滝川りゆうせん(現上北山村)を北山御所とし、神器を奉じて後南朝の復興を図ったが、「赤松記」「上月記」によると、長禄元年(一四五七)一二月二日、赤松の残党に襲われ討死した。南朝の皇胤北山宮、河野宮(忠義王)について系譜などは明らかでない。長禄の変後、北山宮を追慕する遺臣や地方民は御座所を精舎と称し、当地に祠を造営して栃本神社または若一王子社として祀ったのに始まるという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

朝日日本歴史人物事典 「北山宮」の解説

北山宮

生年生没年不詳
室町前期の後南朝の皇族で,大和国吉野郡(奈良県)の奥の北山川流域の郷民に守護されていたという。確実な史料に乏しいが,伝説によれば,後亀山天皇の皇子小倉宮 の王子空因親王が還俗し尊義王と名乗り,その第1子が北山宮尊秀王といったという。嘉吉3(1443)年に起きた禁闕の変でなくなった神器のひとつである神璽を奉じて,弟河野宮忠義王と共に南朝勢力の回復を図ろうとした。だが,嘉吉の変を原因として討伐を受けた赤松氏の遺臣が同家再興を目的とし,このふたりの宮に近づき,長禄1(1457)年,神璽を奪取しようとして北山宮を殺害した。宮の首は付近の郷民の手によって取り戻され手厚く奉られたという。現在,奈良県吉野郡上北山村には北山宮が鎮座しており,宮の没後,遺臣や郷民が御座所跡に祠を建て宮を祀ったのがその起源であるという。後南朝の悲劇を伝える話である。<参考文献>『村田正志著作集』1巻

(小森正明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北山宮」の解説

北山宮 きたやまのみや

?-1457 室町時代の後南朝の皇族。
伝承によると,後亀山天皇の曾孫で,尊秀王,自天王とも称した。大和(奈良県)吉野郡北山にひそみ,禁闕(きんけつ)の変以来行方不明となっていた神璽を奉じて弟の忠義王とともに南朝回復につとめた。長禄(ちょうろく)元年12月2日主家再興をはかる播磨(はりま)(兵庫県)赤松氏の遺臣に殺されたという。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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