北
岡村
きたならおかむら
[現在地名]神岡町北楢岡
南東は神宮寺村、北西は刈和野村(現西仙北町)で、ほぼその中間にあり、羽州街道に沿った村。村の南から西にかけて雄物川が流れる。雄物川の対岸は南楢岡村(現南外村)。
「月の出羽路」に「北楢岡のまたの名を新町ともはら呼ぶ也。其よしは、古来神宮寺郷ときたならおかは一村にして、むかしは神宮寺新町村と田帳、駅役所の日記どもにしるしたれど、しか唱ふもいとながやかなれば、いつと無う云ひ省略て新町とのみぞいふめる」とあって、古くは神宮寺新町村とよび、その後は新町と称されていた。神宮寺村の地続きの開発が進むにつれて分離したものとみられ、「梅津政景日記」元和六年(一六二〇)九月五日条に「北なら岡物成」とみえる。
北岡村
きたおかむら
[現在地名]観音寺市柞田町
柞田川下流の平野部に位置するが、黒淵村などと村域が錯綜して一村としての地域的まとまりはない。南岸沿いに本村の北岡、その南東に黒田、それに接して番匠免、北岸に中出在家、その北に下出在家と集落が散在する。古代の苅田郡柞田郷(和名抄)、中世の柞田庄に含まれた。寛文四年(一六六四)の丸亀藩高辻帳に村名がみえ、朱印高(拝領高)八二一石余。「西讃府志」では高八九九石余、田畝一〇六町六反余、うち畑一八町二反余・屋敷四町二反余。
北岡村
きたおかむら
[現在地名]小布施町北岡
千曲川右岸に近い。東は六川村、西は山王島村、南は小布施村、北は押切村・羽場村と耕地等で境する。
中世は周辺諸村とともに多くは高梨氏の支配を受けて推移した。永禄一〇年(一五六七)五月、武田信玄の関屋備後守らに対する宛行状五ヵ条(武文書)の中に、「一北岡 百貫文」とあるのが初見。戦国末の変転後、慶長五年(一六〇〇)森忠政(松代)領となり、同七年川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「弐百四石壱斗五升六合 北岡村」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 