北沢村(読み)きたざわむら

日本歴史地名大系 「北沢村」の解説

北沢村
きたざわむら

[現在地名]佐久市大字常和ときわ

現佐久市の南方に位置し、荒船あらふね山の支脈が佐久平に沈む末端の谷あいの村。南は田子たこ川を挟んで同じ谷あいに山田やまだ村がある。平賀ひらが城の南の麓にあり、西は開けて水田地帯である。

宮前みやまえの遺跡からは、縄文の勝坂・加曾利E・堀之内式の中・後期のものや弥生期の土師器も出土している。沢に入った天神久保てんじんくぼからは弥生の箱清水式土器が出土。古墳は天神久保・平賀城の南の中腹や麓に分布する。

中世は平賀庄に属した。天文一一年(一五四二)三月、武田氏の重臣板垣信方より井出縫殿尉への宛行状(井出文書)に「北沢之内六貫文所出置候」とある。文禄四年(一五九五)の御郡中永楽高辻(大井文書)に「百七拾貫文 北沢村」とある。


北沢村
きたざわむら

[現在地名]一迫町王沢おうさわ

狐崎きつねざき村の北西で、村を北沢川が東流する。王沢・類子るいこ平林ひらばやし一本松いつぽんまつなどの集落があり、「安永風土記」には小名として南沢・北沢・大又沢おおまたざわあぶらさわがみえる。南東真坂まさか村、西は島体しまたい村など。当村は真坂村の端郷で、肝入が置かれていた。同風土記によれば、田八三貫三六二文・畑五貫八一一文(うち茶畑八文)で、蔵入二一貫八四五文のほかは給所。人頭五八人、うち寛永一八年(一六四一)の検地時の竿答百姓は一五人。


北沢村
きたざわむら

[現在地名]龍野市揖西町北沢いつさいちようきたざわ

長尾ながお村の東に位置し、西から南にかけて小犬丸こいねまる川が流れる。揖西郡に属する。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高二六〇石余、高二一五石余。正保郷帳では田方二〇三石余・畑方一一石余。村高は幕末までほぼ変わらない。


北沢村
きたざわむら

[現在地名]紫波町北沢

北上川に流入する乙部おとべ川下流左岸の山間丘陵地に位置。東・西・南は江柄えがら村、北は乙部村(現都南村)。「雑書」明暦四年(一六五八)四月一三日条に「郡山之内北沢村」とみえる。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高四三石余、七ヵ年平均の免三ツ三分三厘五毛。元禄十郡郷帳では遠山とおやま村に入るとある。


北沢村
きたざわむら

[現在地名]三島市北沢

大場だいば川を挟んで中島なかじま村の東対岸に位置し、北は谷田やた村。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉掟書(松崎文書)に「沢郷」とみえ、同郷など九ヵ所は、小田原北条氏攻撃のため下向してきた豊臣秀吉より、地下人・百姓らの還住を命じられるとともに、軍勢・甲乙人による陣取り、非分の申し懸け、麦の刈取りを禁じられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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