北野遺跡(読み)きたのいせき

日本歴史地名大系 「北野遺跡」の解説

北野遺跡
きたのいせき

[現在地名]小杉町北野

鍛治かじ川左岸のなだらかな台地上(標高二七メートル)にある。昭和六一年(一九八六)発掘調査が行われた。遺跡は東西一〇〇メートル、南北二五〇メートルに広がり、旧石器時代のナイフ形石器や削器、横長剥片、縄文時代の柱跡や土器・石器が検出され、古墳時代の住居跡なども確認された。縄文時代の柱跡は二ヵ所確認されている。一つは一・八×二メートルの四本柱方形の配置をもち、他の一つは対角線の長さが約五メートルの八角形で一〇本の柱をもち、一辺が凸形に出っ張るように配置されている。柱穴の大きさは約〇・八メートル、柱根は〇・三メートル前後。時代は晩期と考えられる。前者のような例は富山市古沢ふるさわA遺跡で確認されている。


北野遺跡
きたのいせき

[現在地名]篠山市北野 城坪など

篠山盆地の西端、篠山川に合流する大山おおやま川の末端、標高二〇四メートル前後の段丘上に立地する。弥生時代後期から中世に至る集落跡。遺跡の範囲は六万平方メートルに及ぶと考えられている。昭和六三年(一九八八)に第一次発掘、平成元年(一九八九)・同二年に二次・三次の調査を実施。第二次のトレンチ調査では一〇棟の、第三次の面的調査では九棟の竪穴住居跡が発掘され、これまで三〇棟を超える竪穴住居跡が確認されているが、一〇〇棟を超える住居跡が分布するものと想定されている。竪穴住居跡には平面形が円形と方形の二タイプがある。その一つは径四・五メートルの小竪穴住居跡を径一一メートルの大型住居跡にしたもので、八本の主柱を等間隔に配し、補助支柱で屋根材を支える構造をとる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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