傷病治療のために支出される費用。これには,医師の治療に対する代償として支払われる費用,医師の処方にしたがって薬局で入手する薬剤の費用,医師の指示をうけずに薬局で購入する買薬の費用,あんま,はり(鍼),きゅう(灸)などの主として直接的な費用が含まれている。このほか,通院のための交通費,入院付添費など,病気治療に付帯する間接的な費用をこれに含めることもある。また世界保健機関(WHO)は,直接治療費のほかに,正常な妊娠・分娩・産褥(さんじよく)の費用や,健康診断,予防接種,保健薬購入,眼鏡・義肢の費用,医学の教育研究の費用などを加え,これらを総称して保健費用とよんでいるが,これを広義の医療費ということもできよう。以上は治療をうける医療サービスの需要者側からみた医療費であるが,他方その供給者側からみると医療費とは,医療サービスを供給するためにかかった生産費のことである。これには,医師ならびに医師以外の医療従事者に対する報酬などの人件費,薬剤・診療材料その他の物件費,さらに建物・設備・医療機器・備品等の減価償却費が含まれている。
医療費の経済的性格
医療サービスの出費である医療費については,その経済的性格をめぐって二つの対立した考え方が出されている。第1のそれは,医療費を医療サービスへの消費支出と考えて,教育費や観劇費等と同じとするものである。もともと医療は病気を回復させるのが目的であり,それによってもとの健康状態またはそれに近い状態に復帰することによって,はじめて真の目的が達成されたことになる。このように同じく消費といっても,医療そのものが目的なのではなく健康の回復ないし修復が最終目的なのであるから,一種の中間財的消費ということもできる。中間財的消費であれば,その同じ目的を達成するのに消費は少なければ少ないほどよい,ということになる。他方,第2の考え方は,医療費をもって健康への投資支出である,とみなすものである。死亡したり障害者になったかもしれない病人が医療によって救われ,健康の回復がなされただけではなく,健康になったことにより,労働能力が高まるのであるから,医療費は単なる消費支出ではなく投資支出ということになる。さらに公衆衛生的な予防活動は,疾病の予防という消極的効果だけではなく,健康水準そのものを高めるという積極的効果をもっており,その意味では投資に近い,といってもよいであろう。現実の医療費は二面的性格をもっており,二つの考え方の総合化が必要である。
医療費にはさらにミクロ的な見方とマクロ的な見方がある。前者は個人や個人の家計が保健医療のために負担する費用であり,これには,一定期間の医療保険の一部負担,買薬費,医療器具・材料品費,全額自己負担医療費等の直接的費用のほかに,差額ベッド料金や付添看護料,医師・看護婦へのお礼の金品代等の間接的費用も含まれている。これに対して後者は国民医療費とよばれ,原則上,一定期間に一国全体で傷病の治療に支出された直接的費用の総額が含まれている。
医療の特性と医療費
医療サービスには他の一般商品とは異なるきわだった特性がある。(1)医療サービスの不確実性 人間の健康状態を客観的に判断することは難しいばかりでなく,健康そのものに個体差があり,それに主観的な判断が入りこむため,医療需要を予知することは難しい。また医療サービスの効果についても,回復の可能性を確定的に予測できない,という不確実さがある。(2)医療サービスの需要側と供給側との不平等性 医療の内容を理解するには特別の専門的知識と経験が必要であり,提供される医療サービスの量や質についてそれが適正かどうかを判断することは,医療供給側にはできても医療需要側にはほとんど不可能に近い。このように医療においては情報に関し両者は決定的に不平等である。(3)医療サービスの外部効果 ある人がうけた医療サービスが他人にも利益を与えることをいうが,このよい例として伝染病の治療をあげることができる。感染源の患者を治療することが伝染病の流行阻止になるからである。
第1の不確実性に対処するため医療保険が生まれ,これがまた医療費増大に拍車をかけている。また,第2の情報の不平等性から,医療の必要性に関する判断が医師に集中し,これが医療費の決定にも大きな影響をもつ。さらに第3の外部効果は伝染病治療に限らず,低所得者や高齢者に対する医療のように人々の人道主義的な充足感に訴えるものにも多くみられ,しかもそれは拡大傾向があるため,これも医療費増大の一因になっている。
医療費と医療保障
社会保障がまだ普及していなかった時代には,病人は医療費全額を直接窓口で支払わなければならず,その負担が一般庶民の生活にとって重大な脅威になっていた。大正末期にインフルエンザがひろがったとき,罹患したもののうち受療者は1/3にすぎず(全国厚生農業協同組合連合会編《日本農民医療運動史》),1934年ごろでも患者のうち負担に耐えられるもの約半分,短期には耐えられるが長期では耐えられぬもの約30%,残りは要援護者であったという(西三郎の調査による)。一度病気になれば3ヵ月たたり,一度入院すれば3年たたるというのが当時の状況であり,病気と貧困の悪循環が最も深刻な社会問題であった。このような悪循環の鎖を断ち切るために民間の相互扶助組織として共済組合が生まれ,やがて社会保障の一環たる医療保険が誕生した。1922年の健康保険法と38年の国民健康保険法がそれである。第2次大戦後は制度の改革が進み,生活困窮者に対する医療扶助とその他の人々に対する医療保険の二つを柱とする医療保障制度が確立し,さらに61年には全国民をなんらかの医療保険に加入させる国民皆保険の体制が実現した。人口高齢化の進行とともに老人保健医療対策が課題となり,医療保険制度間の老人医療費負担のアンバランスの是正や保険と保健を総合した制度の確立をめざして,老人保健法(1982公布)が成立し実施された。これによって病気と貧困の悪循環はほぼ解消され,代わって人口高齢化社会の医療費急増時代に突入している。
医療費増大の国際比較
先進諸国は第2次大戦後,きそって医療保障の整備充実を図り,その改善に努めているが,これと並行して医療費が急増し,表が示すように国民所得(GNP)の伸び率をはるかにしのいでいる。その原因は,第1に医療保障の充実であり,患者の経済的負担の低減によって医療需要は激増した。第2は人口高齢化,第3は所得水準の上昇による需要の増大である。さらに第4には医療供給側からの原因として,医学医術の進歩による医療コストの上昇があげられる。医学医術の進歩によって死亡率は低下したが,その代り死を免れたものの健康の完全修復ができない人が増加するため有病率や障害率が高まり,これもまた医療費増大を促進させている。これらの一般的な理由のほかに,医療保障の方式や,医療供給に対する報酬支払方式が医療費の増加パターンと関係がある。医療保障の方式には,社会主義国やイギリスなどのように政府が直接に医療サービスを国民に供給する保健サービス方式(国営医療方式。なお〈国民保健サービス〉制度の項目を参照)と,他の大多数の先進国がとっている社会保険方式とがある。前者の場合は,医療費が国家予算の枠の中できめられるために,その増大傾向も抑制されているが,後者では政府による医療費の抑制効果は薄く,この方式をとる国の医療費増加率がとくに高い。また,診療報酬の支払方式では,イギリスが受持ち住民数に応じた人頭払方式をとっているのに対し,社会保険方式をとる多くの国では診療の量に応じた出来高払方式をとっているため,後者では医師の裁量権が大きく,それだけ医療費を増大させる傾向をもっている。このような医療費の急増をさけ,同時に国民の健康水準を引き上げるため,まず予防に力をいれて発病率をおさえ,また医療資源を医療必要度に応じて最適配分するなど,抜本的な対策が求められている。
→国民医療費
執筆者:地主 重美