南浜町(読み)みなみはまちよう

日本歴史地名大系 「南浜町」の解説

南浜町
みなみはまちよう

蓬莱ほうらい橋の北詰の東西、宇治川派流に面した北側の浜地に形成された町。伏見市街の南端であるところから南浜の称ができたものであろう。伏見各浜のなかでも、貨客の集散が最も多く、城下町時代からほとんど町家地であったが、蓬莱橋北詰東側に相楽宮内屋敷があったと「豊公伏見城ノ図」は記す。寛文一〇年(一六七〇)山城国伏見街衢並近郊図には「南浜三町」と記され、東部に松平土佐守屋敷が記されている。南浜三町とは、東西に細長い当町を東・中・西に三分していたことを示し、蓬莱橋通の西と東、その東側で北方の南部町から下ってくる通りで区画していたと考えられる。


南浜町
みなみはまちよう

[現在地名]小樽市色内いろない一―二丁目・港町みなとまち

明治二二年(一八八九)より同三二年まで存続した高島たかしま郡の町。色内町の東にあり、北は北浜町。林有造・岡野知荘らの請負で色内町・手宮てみや町の地先海岸三万一千坪を埋立てたもので、於古発おこばち(オコバチ川)より色内川左岸にわたる色内町地先がほぼ南浜町に相当する(小樽市史)。明治一一年六月、当町に函館税関出張所が置かれた。同一四年閉鎖、同一九年改めて開庁(「小樽市史稿本」など)。同二二年北浜町・南浜町が成立したという(状況報文)


南浜町
みなみはままち

[現在地名]高砂市高砂町南浜町

高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)には西浜とあり、町場の南の浜であることからのちに南浜に改称されたものと思われる。町場の南東部、高砂川沿いに町から南に連なる町並。船着場・荷揚場があり、問屋の蔵が建並ぶ問屋町であった。当地には川口番所が置かれ、浦高札場となっていた。安永二年(一七七三)の棟数一五・竈数三四・店借二二、人数一五五、うち田地持二(「高砂町方明細帳写」船津家文書)。当町からは二人の高砂町大年寄が出ており、三谷(柴屋)七太夫は天保八年(一八三七)から二〇年間、小西(塩屋)次右衛門は万延元年(一八六〇)から六年間勤めた(「宗門人別帳」菅野家文書)


南浜町
みなみはまちよう

[現在地名]西区靭本うつぼほん町二―三丁目

京町堀きようまちぼり六丁目の西に続く町で、京町堀川の南岸に沿う。西は両国りようごく橋南詰まで。町名は明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図にみえる。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数一五・役数一八半役で、うち年寄分一役が無役。


南浜町
みなみはまちよう

[現在地名]釧路市南浜町・海運かいうん一―三丁目

昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと釧路村の一部(トンケシ)。明治四二年(一九〇九)釧路港修築に伴い地先が港域に含まれた。昭和七年の世帯数六〇・人口三二五(釧路郷土史考)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android