日本大百科全書(ニッポニカ) 「南満州鉄道株式会社」の意味・わかりやすい解説
南満州鉄道株式会社
みなみまんしゅうてつどうかぶしきかいしゃ
日本の中国侵略の足掛りとなった国策会社。通称「満鉄」。第二次世界大戦前の日本で最大級の会社であった。
満鉄は、1905年(明治38)、ポーツマス条約(日露講和条約)によって日本がロシアから譲渡された利権に基づき設立された。設立以前には日米共同経営の動きもあったが、ポーツマス会議の全権大使であった小村寿太郎(じゅたろう)の強い反対により日本の単独経営に決定。初代総裁は後藤新平。設立時資本金は2億円。株式会社の形式をとったが、政府が株式の半額を所有。政府は社債の元利保証、民間所有株式の配当保証、人事面での官僚の派遣なども行い、実質的には国策会社であった。営業は、1907年4月1日から大連(だいれん)―孟家屯(もうかとん)、安東(あんとう)―奉天(ほうてん)間などを手始めに開始され、11年11月には朝鮮総督府鉄道との連絡がなり、新義州(しんぎしゅう)―安東間が開通した。鉄道付属地の経営や鉄道守備隊の駐留権など政治的・軍事的性格が強く、鉄道経営による営利追求と満州植民地化の国策追求という二つの目的をもっていた。本社は初め東京に置かれ、のち大連に移された。
第一次世界大戦時に、満州(現在の中国東北地方)の特産品である大豆三品(大豆・豆油・豆粕(まめかす))の世界的需要が高まったのを機に、それらの輸送で巨利を獲得。鞍山(あんざん)製鉄所の建設や撫順(ぶじゅん)石炭の増産などを行い、1920年代には多数の傘下企業を擁する一大コンツェルンとなった。しかし、1920年代の終わりには、民族運動の高揚を反映した中国側鉄道の伸長に影響され、業績は後退。世界恐慌による大豆三品需要の後退もあって、1931年(昭和6)には創業以来最大の営業不振に陥った。こうした満鉄の危機を背景に、同年9月には満州事変が勃発(ぼっぱつ)した。満州植民地化の国策は、従来のような満鉄を通じた間接的な方式によってではなく、直接的な関東軍の武力発動により実現されることになった。満鉄は軍事輸送、情報収集、宣伝面で関東軍に全面協力。軍が接収した中国側鉄道の経営を委託されるとともに、新線の建設にあたった。「満州国」が建国された1932年から36年までの日本の対満投資は約12億円に上ったが、そのうち8億円は満鉄とその関係会社を通じたものであった。1933年の関東軍の華北侵入以来、日本の「華北分離工作」が本格化したが、これに対応して満鉄は華北の経済調査を実施。1935年には後の北支那(しな)開発株式会社(1938設立)の母体となった子会社興中公司(こうちゅうコンス)を設立。こうした満鉄の動きを踏まえて1937年には日華事変が起こり、日中戦争は全面化した。戦争の全面化に伴い軍による規制が強化され、満鉄の経営の自主性は後退したが、第二次世界大戦末期には、経営路線は1万キロメートルに拡張、資本金14億円、社員20万人を擁する巨大なコンツェルンとなった。1945年(昭和20)敗戦とともに中国長春(チャンチュン)鉄路に接収され消滅した。
[橘川武郎]
『南満州鉄道編『南満洲鉄道株式会社三十年略史』(1975・原書房)』▽『安藤彦太郎編『満鉄――日本帝国主義と中国』(1965・御茶の水書房)』