南蛮寺跡(読み)なんばんじあと

日本歴史地名大系 「南蛮寺跡」の解説

南蛮寺跡
なんばんじあと

南蛮寺とは、日本に建立されたキリシタン聖堂をいい、一六世紀後半、京都には数ヵ所建立された。位置には諸説あるが、当項目は四条坊門ぼうもん(現京都市中京区姥柳町)に建立されたいわゆる京都南蛮寺をさす。正式には「サンタ・マリア御昇天の寺」(フロイス「日本史」)、または「珊太満利亜さんたまりあ御上人の寺」(「巌松堂文書」一五九四年日繰)ともいう。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建と信者の協力〕

永禄―元亀(一五五八―七三)の頃、当地辺りに荒廃した礼拝堂があった。フロイスの「日本史」によれば、四本の支柱上に建つが、その三本は折れかかっていたという。天正三年(一五七五)オルガンティーノ、フロイスらは、有力な信徒たちを招集し、新聖堂を建立することを図ったが、古寺からの材木・資材購入の値段について難色を示した(「耶蘇会士日本通信」一五七七年九月一九日)。次いで二度目の会議を開き、再興を決意、近郊の信徒たちの援助を確認。豊後にいた宣教師フランシスコ・カブラルは、財源の中から六〇〇タエル(約一三二両)を寄付、同年夏工事が開始された。高槻たかつき(現大阪府高槻市)の高山右近父子は、用材調達の任を受け、摂津のジョルジ結城弥兵治は、四、五〇人の人夫を連れてこれを援助、職人たちの食糧の便もはかったという(フロイス「日本史」)。しかし町衆、僧侶たちはこの建設に反対、京都代官村井貞勝に訴えた(「耶蘇会士日本通信」一五七七年九月一九日)


南蛮寺跡
なんばんじあと

[現在地名]有明町上津浦

上津浦種直が建立したと伝えられるキリシタン寺院跡。その位置については上津浦こうつうら内のかくし、チヨジとよばれる小丘、正覚しようがく寺の境内など、説が分れる。ルイス・フロイス「日本史」によれば、天正一八年(一五九〇)種直は姉婿栖本通隆の勧めでキリシタンに入信、受洗してホクロン殿と称された。このとき領民三千五〇〇人もキリシタンに改宗したという。「天草風土考」には「天正十六年天草五人守護ともにほろひて其年より小西の領地となる時に行長耶蘇宗を信し上津浦に南蛮寺を建蛮人末流古須羅と云者を居へ置」とあり、キリシタン大名小西行長の保護のもと教勢が盛んになる。バテレン追放令下の文禄二年(一五九三)河内国のサンチョ三箇頼照の子マンショ頼連が家族と家臣を伴って当地に身を寄せている(日本史)


南蛮寺跡
なんばんでらあと

[現在地名]佐賀市柳町

慶長年間佐賀城下図によると、やなぎ町の東、東西四七間、南北四三間の広大な地域に南蛮寺が記されている。慶長一三年(一六〇八)ドミニコ会の宣教師アロンソ・デ・メーナ神父らによって、前年のはま町そしてこの年の鹿島(以上現鹿島市)教会につづいて造られ、聖パウロに捧げるとして聖パウロ(サン・パブロ)教会とよばれた。佐賀での教会の動きは、藩主鍋島勝茂の貿易保護政策を背景とする中で「佐賀の布教は一六〇九年から一六一二年までは順風に帆をあげたように」活発であった(デルガード神父「肥前における布教」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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