福岡市(博多)産の土人形。一般に博多人形とよばれているものは、博多近郊の粘土を材料とし、人物を彫塑(ちょうそ)して素焼にしたものを泥絵の具などで着色して仕上げた作品である。浮世絵、能、歌舞伎(かぶき)などから取材した伝統的な造型のほか、現代風俗を扱ったものもある。優雅な美術工芸品で、博多名物の一つとして全国的に知られ、海外にも盛んに輸出されている。これらの作品は「新博多人形」として売り出されてきたもので、それ以前には「古博多土人形」ともいうべき作品群が存在した。
その発生は1600年(慶長5)藩主黒田長政(ながまさ)の福岡築城の際に、瓦(かわら)職人正木宗七が、余技に陶製人形をつくって藩公に献上したのがおこりとされている。文政(ぶんせい)年間(1818~30)4代宗七のころ、親交のあった人形師中ノ子吉兵衛(なかのこきちべい)が、宗七焼きの技法を生かして土人形製作を創案、いまの博多人形の始祖となった。明治中期から末期には鑑賞用の飾り人形が主流となった。海外市場も開発されて、郷土玩具(がんぐ)の域を脱した存在に発展した。江戸時代の伝統をもつ古博多土人形は、中ノ子吉兵衛の後継者によって現在同県春日(かすが)市でつくられている。代表的な作品に「笹野(ささの)才蔵」がある。若衆姿の剛勇の士が御幣を持った猿を抱いた姿で、才蔵が痘児(とうじ)を全快させた故事から、これを子供の疱瘡除(ほうそうよ)けとする風習がある。ほかに、鯛(たい)抱き、土笛、土鈴、節供人形などがある。
[斎藤良輔]
九州博多(福岡市)産の土人形。博多近郊の粘土を原料とした素焼きの人形に,泥絵具などで着色したもの。1600年(慶長5)藩主黒田長政がこの地に移封されて福岡城を築いたとき,瓦師正木宗七が城の瓦を焼いた余技に残りの土で人形を焼き,藩公に献上したのが起りとされる。正木家は以後,代々藩の御用焼物師としておもに実用品製作の家業を受け継いだ。文政年間(1818-30)4代宗七のとき親交のあった人形師,中ノ子吉兵衛が宗七焼の陶芸の技法を生かして土人形を製作し,今日の博多人形の始祖となった。彼は木彫りの名手,牧牛軒利治に彫刻の技を習い,良質の粘土にも恵まれたうえ,藩から玩具人形製作の許可を得て,1850年(嘉永3)には節句用素焼着色の大型雛,兜人形などを売り出して好評を博した。明治以後は陶芸美術の専門家を招いたりして技術向上に務め,玩具人形の域を脱した工芸美術的な作品を生んだ。生産量も多く,全国的な販路をもつとともに海外にも輸出され,日本の代表的な土人形とされる。種類は歌舞伎,能などに取題したもの,風俗物,童(わらべ)物など数多い。なお,伝承的な郷土玩具時代の型は古博多人形と呼ばれ,中ノ子家で製作され,子どもの悪病よけの笹野才蔵(ささのさいぞう)人形(振袖若衆姿の笹野才蔵が,御幣を持った猿を抱いたもの)などがある。
執筆者:斎藤 良輔
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