幕末、明治期の曹洞(そうとう)宗の僧。幼名は良作。覚仙(かくせん)、鶴巣(かくそう)と号する。陸奥(むつ)国(福島県)磐城平(いわきたいら)(いわき市)の藩士新井勇輔(あらいゆうすけ)の長男として生まれる。1833年(天保4)15歳で昌平黌(しょうへいこう)に学び、1840年多紀安叔(たきあんしゅく)(元堅(げんけん))の塾に入って医術を修める。20歳のとき浅草総泉寺の栄禅(えいぜん)について出家。1872年(明治5)教部省から教導職少教正(しょうきょうせい)に任ぜられる。1879年東京大学印度(インド)哲学科の初代講師となり、『大乗起信論』の講義を担当する。1885年学士院会員に選ばれ、1891年曹洞宗大学林(現、駒沢(こまざわ)大学)総監、1892年には同宗管長(かんちょう)事務取扱として宗務をつかさどる。著書には、西洋医学の知識による『心識論』などがある。また『心性実験録(しんしょうじっけんろく)』をめぐっては福田行誡(ふくだぎょうかい)との間で論争が行われている。
[池田英俊 2017年9月19日]
『釈悟庵編『坦山和尚全集』全1巻(1909・光融館/複製『原坦山和尚全集』・1988・名著普及会)』▽『常光浩然著『明治の仏教者 上』(1968・春秋社)』
幕末・明治期の曹洞宗の僧,仏教学者。磐城平藩士新井勇輔の長子で幼名は良作。号を覚仙,別に鶴巣とも称した。15歳で昌平黌に入って儒学を学び,また医術を修めたが,20歳のとき出家して大中京璨(だいちゆうきようさん)の法を継いだ。さらに西洋医学の研究を行い,1856年(安政3)には京都心性寺に住したが間もなく退き,72年(明治5)教導職に任命された。2年後に出版法違反の責任を負わされて同職を免職され,また僧職も剝奪されたが,80年に復籍している。1879年東京大学にインド哲学が開講されると初代講師となって〈大乗起信論〉を講義し,85年学士院会員となった。このとき〈印度哲学の実験〉と題する講演をしている。その後,曹洞宗大学林総監,同宗事務取扱となった。《惑病同源論》など多くの著書を残し,《坦山和尚全書》に収められている。
執筆者:竹貫 元勝
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