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原坦山 はら たんざん

美術人名辞典の解説

原坦山

曹洞宗の禅僧。福島県生。幼名は良作、諱は覚仙、号を鶴巣。昌平黌に入り、多紀安叔の塾では医学を学ぶ。東大で印度哲学の最初の講師となる。学士院会員。小田最乗寺の住職。明治25年(1892)歿、74才。

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デジタル大辞泉の解説

はら‐たんざん【原坦山】

[1819~1892]幕末・明治期の禅僧・仏教学者。陸奥(むつ)の人。幼名、良作。諱(いみな)は覚仙。号、鶴巣。昌平黌(しょうへいこう)に学び、また医学も修めた。東大印度哲学科の最初の講師。のち曹洞宗大学林総監

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

原坦山 はら-たんざん

1819-1892 江戸後期-明治時代の僧,仏教学者。
文政2年10月18日生まれ。曹洞(そうとう)宗。江戸の昌平黌(しょうへいこう)で儒学をおさめ,多紀元堅の塾で医学をまなぶ。26歳で出家。明治12年東京大学で初の仏教講義をおこなう。のち曹洞宗大学林(現駒沢大)総監。明治25年7月27日死去。74歳。陸奥(むつ)磐城平(いわきたいら)(福島県)出身。本姓は新井。名は覚仙。号は鶴巣。

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世界大百科事典 第2版の解説

はらたんざん【原坦山】

1819‐92(文政2‐明治25)
幕末・明治期の曹洞宗の僧,仏教学者。磐城平藩士新井勇輔の長子で幼名は良作。号を覚仙,別に鶴巣とも称した。15歳で昌平黌に入って儒学を学び,また医術を修めたが,20歳のとき出家して大中京璨(だいちゆうきようさん)の法を継いだ。さらに西洋医学の研究を行い,1856年(安政3)には京都心性寺に住したが間もなく退き,72年(明治5)教導職に任命された。2年後に出版法違反の責任を負わされて同職を免職され,また僧職も剝奪されたが,80年に復籍している。

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大辞林 第三版の解説

はらたんざん【原坦山】

1819~1892) 禅僧・仏教学者。磐城の人。名は良作。諱いみなは覚仙、号は鶴巣。東大印度哲学科の最初の講師。曹洞宗大学林(現、駒沢大学)総監。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

原坦山
はらたんざん
(1819―1892)

幕末、明治期の曹洞(そうとう)宗の僧。幼名は良作。覚仙(かくせん)、鶴巣(かくそう)と号する。陸奥(むつ)国(福島県)磐城平(いわきたいら)(いわき市)の藩士新井勇輔(ゆうすけ)の長男として生まれる。1833年(天保4)15歳で昌平黌(しょうへいこう)に学び、40年多紀安叔(たきあんしゅく)の塾に入って医術を修める。20歳のとき浅草総泉寺の栄禅(えいぜん)について出家。72年(明治5)教部省から教導職少教正(しょうきょうせい)に任ぜられる。79年東京大学印度(インド)哲学科の初代講師となり、『大乗起信論』の講義を担当する。85年学士院会員に選ばれ、91年曹洞宗大学林総監、92年には同宗管長(かんちょう)事務取扱として宗務をつかさどる。著書には、西洋医学の知識による『心識論』などがある。また『心性実験録(しんしょうじっけんろく)』をめぐって福田行誡(ぎょうかい)との間で論争が行われている。[池田英俊]
『釈悟庵編『坦山和尚全集』全一巻(1909・光融館) ▽常光浩然著『明治の仏教者 上』(1968・春秋社)』

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