日本大百科全書(ニッポニカ) 「友野与右衛門」の意味・わかりやすい解説
友野与右衛門
とものよえもん
生没年不詳。江戸前期の商人、箱根用水の開発者。箱根用水(深良(ふから)用水とも)を開削して駿河(するが)国(静岡県)駿東(すんとう)郡中・南部の旱損(かんそん)を解消し、かつ新田開発をも成功させた。江戸浅草の商人で、生まれは駿府(すんぷ)(静岡市)の呉服(ごふく)町。戦国期末、駿府で活躍した商人友野座にかかわる人であろうともいわれるが、いずれも詳細は不明である。また、箱根用水の開削技術の原型を信州蓼科(たてしな)山北麓(ろく)の五郎兵衛(ごろうべえ)新田(長野県佐久(さく)市)の五郎兵衛堰(ぜき)に求め、その地に近い伴野(ともの)(佐久市伴野)の生まれであろうともいわれるが推測の域を出ない。
友野は、箱根芦(あし)ノ湖の湖水に着目、駿東郡深良村(静岡県裾野(すその)市)の名主大庭源之丞(おおばげんのじょう)と諮り、深良村以南の地に引水しようとした。芦ノ湖の支配権をもつ箱根権現(ごんげん)別当快長(かいちょう)の理解を得て、友野が金主となり、箱根外輪山の中腹から隧道(ずいどう)を芦ノ湖湖尻(こじり)付近に掘り進めた。1666年(寛文6)深良側から着工、4年の歳月と7333両余の資金を投入して、70年ようやく完成させた。隧道全長1341.8メートル。この用水によって潤う田畑は500ヘクタール余であったという。隧道工事はたいへんな難工事であったが、それとともに工事出願に対し右顧左眄(うこさべん)して許可を与えない役人や、友野にさまざまな疑いをかけた幕府の対応など政治的にも幾多の困難が発生していた。完成後、用水の恩恵を受けた駿東郡本宿(ほんじゅく)村(静岡県長泉(ながいずみ)町)の百姓たちが友野に年貢米を納めようとしたが、所在不明のため代官にどうすればいいのか指示を求めていたことは、友野が幕府の手によって処刑されていたという伝承の信憑(しんぴょう)性をうかがわせる。
惣(そう)ヶ原(長泉町上土狩(かみとがり))の芦湖水神社は、大庭や友野らを祀(まつ)り、8月3日に例祭が行われる。
[若林淳之]
『『静岡県駿東郡誌』(1917・駿東郡役所)』▽『タカクラ・テル著『箱根用水』改訂版(1971・東邦出版)』