農芸化学者。元治(げんじ)元年12月京都に生まれる。12歳のとき、父仙蔵と死別。1881年(明治14)駒場(こまば)農学校に入学、ケルネルOscar Kellner(1851―1911)に学ぶ。1886年同校農芸化学科を卒業、この年同校が東京山林学校と合併し東京農林学校と改称され、その助教授、ついで教授となる。1890年、同校がさらに東京帝国大学農科大学となるに及び同大学助教授となった。1892年、女流作家清水紫琴と結婚。1895年ドイツに留学し農芸化学を研究、1900年(明治33)に帰国し東京帝国大学農科大学教授となる。1905年、農事試験場技師および場長を兼任、1911年東京帝国大学農科大学学長、1920~1928年(大正9~昭和3)東京帝国大学総長を務めた。
農芸化学上の研究としては、茶の生化学、各種肥料の稲作および畑作における肥効、土壌の消耗や地力の研究、またリン酸肥料の必要性や日本酒醸造における酵母の純培養の必要性を指摘するなど、当時未開発であった課題について草分け的研究を行った。また1923年の関東大震災後、東京帝国大学の復興に尽力した。足尾(あしお)鉱毒事件に際しては、農民の依頼に応じて渡良瀬(わたらせ)川流域の土壌を分析し、鉱毒の銅の存在を確認するとともに、農民の補償要求に協力し、その救済に尽力した。
[道家達將]
明治〜昭和期の農芸化学者 東京帝国大学総長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
農芸化学者。京都出身。駒場農学校卒業。1895年ドイツに留学,牛乳腐敗菌の研究でドイツ学界に名声をえる。99年農学博士,1900年に帰国し,東京帝国大学農科大学教授となる。足尾鉱毒事件の発生初期において,鉱毒被害農民の依頼により,同僚の長岡宗好とともに1890年初めて被害原因を科学的に分析し,河水中から銅の化合物を検出した(結果は1892年〈足尾銅山鉱毒研究〉として《農学会会報》16号に発表)。92年清水紫琴と結婚する。その後1902年と09年には政府の鉱毒調査会の委員に任命された。20年互選による初の東京帝国大学総長に就任,25年再選。関東大震災後の大学復興事業に取り組み,大学の運営,文教行政に尽力する一方,教育者としても優れ,学・官界の幾多の人材を養成した。哲学者古在由重は実子。
執筆者:菅井 益郎
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…大井憲太郎と恋愛し男児をもうけるが別れる。92年,のちに東京帝大総長となる古在由直と再婚。被差別民を扱った《移民学園》(1899)以後筆を絶った。…
…ケルナーは土壌・肥料,植物栄養,家畜飼養,農産製造,蚕体生理の諸研究面において,フェスカは《日本地産論》などを著す過程において,ダンは畜種改良,牧草導入,輪作,草地改良,大型機械利用の各面において,大きな影響を与えた。 それら本邦農学,泰西農学を受けて,〈明治農学〉ともいうべき新分野を展開したのが,横井時敬,酒勾常明,古在由直らの農学者であった。横井は初期には農学の実験的分野に関心を示したが,後に経営,経済に力を入れ,《塩水選種法》《稲作改良法》などの著書があり,酒勾には《改良日本稲作法》があり,ケルナーの弟子古在は,日本における農芸化学の祖ともいうべき農学者であり,公害研究の先駆者でもあった。…
※「古在由直」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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