吉尾村(読み)よしおむら

日本歴史地名大系 「吉尾村」の解説

吉尾村
よしおむら

[現在地名]御津町吉尾

中山なかやま村の北、野々口ののくち村の西に位置し、吉尾川上流の小盆地を中心に水田が広がり、山際に集落が散在する。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」に「よしお村」とある。また、年未詳五月六日の某三人連署要脚銭催促状(大村文書)によれば、「吉尾野之口」は課せられた守護要脚五貫文を再び催促されている。寛永備前国絵図に高一九九石とある。


吉尾村
よしおむら

[現在地名]根尾村高尾たかお

宇津志うつし村の北に位置し、根尾川右岸山麓に集落がある。貞享元年(一六八四)高尾村と改称したという(座右秘鑑)。しかし、公的には元禄郷帳・天保郷帳でも吉尾村とみえる。正保郷帳から大野郡に属し、同帳によれば田一〇石余・畑一〇〇石余・山年貢一三石余・紙桑木高三四石余。貞享二年大垣藩の内検により村高一三八石余となった(大垣領村々高帳)。明和元年(一七六四)村明細帳によれば田八反余・畑九町余・屋敷地一反余、小物成として山年貢米三石余・真綿五五八匁・厚紙一五束・薄口紙一〇束・年貢段木一一四間・木地挽運上銀八匁・漬蕨二七把・五倍子四合を上納した。ただし真綿・紙・段木は代米・代銀を受けとる。


吉尾村
よしおむら

[現在地名]三朝町吉尾

鎌田かまだ村の南東に位置し、加茂かも川支流の小河谷から丘陵にかけて広がる。拝領高九八石余。和田氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高一一二石余、竈数一二。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によると朱高一〇七石余、高一一八石余、うち畑高二一石余。免六ツ四分で倉吉御蔵納。定加損・悪田加損米五石。藪役銀五匁四分が課され、棟数六軒・役高一二〇人。男四五・女五二・禅門一。産土神は天神観音堂(吉尾堂)は「御国札八番」とある。


吉尾村
よしおむら

[現在地名]北区八多町吉尾はたちようよしお藤原台中町ふじわらだいなかまち三―七丁目

柳谷やなぎだに村の北にある有馬ありま郡の村。武庫むこ川支流八多川の流域に位置する。地内の吉尾城跡は戦国期に吉尾氏の拠城であったが、永禄三年(一五六〇)松原氏に滅ぼされ、その後山崎定時がいたといわれる。慶長国絵図に村名がみえるが村高の記載はなく、柳谷村の高三八一石余に含まれたと考えられる。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳は「吉尾村・柳谷村」の高として三八一石余を記し、丹波福知山藩有馬豊氏領。


吉尾村
よしおむら

[現在地名]芦北町吉尾

吉尾川に沿った山中、現在の字本迫ほんざこ周辺にあり、東の下流に市居原いちいばる村がある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳に村名があり、田畑高一二一石四斗余、居屋敷六ヵ所、家数五八軒、人数一四五、うち女五四、頭百姓一・名子百姓一六、牛一三・馬七とある。元禄国絵図に「大河内村之内吉尾本村」とある。田浦手永に属し、「国誌」に「吉尾本村」とあり「大河内村ノ内」と注記し、高七二石九斗余とする。明治八年(一八七五)市居原村を合併。集落裏の標高約一二〇メートルの急峻な山を吉尾城跡と称し、永禄(一五五八―七〇)の頃に相良家臣吉尾大学とその子塩山浅之助がいたという(古城考)


吉尾村
よしおむら

[現在地名]柏崎市吉尾

よね山北西麓に孤立した村。頸城くびき郡に属する。山麓を同郡大平おおだいら村から小杉こすげ村へと山越えに通じる道は、北陸道の古道とする説もある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に村名がみえ、知行人は御料所・柿崎氏の相給。地味下、本納一一・八二石、縄高二〇・六四五石、役家数二・人数一〇とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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