厳島の戦い(読み)イツクシマノタタカイ

デジタル大辞泉 「厳島の戦い」の意味・読み・例文・類語

いつくしま‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【厳島の戦い】

弘治元年(1555)、毛利元就もうりもとなりが、主人大内義隆を殺害した陶晴賢すえはるかた厳島で討った戦い。以後毛利氏中国地方勢力を拡大した。

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精選版 日本国語大辞典 「厳島の戦い」の意味・読み・例文・類語

いつくしま【厳島】 の 戦(たたか)

  1. 戦国時代天文二四年(一五五五)一〇月、毛利元就(もとなり)陶晴賢(すえはるかた)を厳島に奇襲して破った戦い。この後、元就は大内義長、尼子義方をたおし、中国地方最大の戦国大名となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「厳島の戦い」の意味・わかりやすい解説

厳島の戦い
いつくしまのたたかい

1555年(天文24)10月1日、安芸(あき)国(広島県)厳島で毛利元就(もうりもとなり)軍が陶晴賢(すえはるかた)軍に大勝した戦い。晴賢は1551年(天文20)西中国から北九州に至る地方を支配する大内義隆(おおうちよしたか)に反逆を企て、権力を奪取した。安芸国吉田(よしだ)(広島県安芸高田(たかた)市吉田町)を本拠とし、大内氏と目下の同盟関係にあった元就は、当初は晴賢に恭順するとともに、この機会に安芸、備後(びんご)に勢力を伸ばした。そこで両者の対立が先鋭化し、54年晴賢の石見(いわみ)国津和野(つわの)の吉見正頼(よしみまさより)追討への参陣要求を元就が拒否したのを契機に、公然たる武力衝突が開始された。そして決戦場として選ばれたのが、瀬戸内水運の要衝である厳島だったのである。陶軍2万余対毛利軍3000余と、数的には大差だったが、荒天に乗じた毛利軍の奇襲が成功し、陶軍は壊滅、晴賢も自刃(じじん)して果てた。この結果、まもなく元就は周防(すおう)、長門(ながと)をも手中に収め、中国地方制覇の土台を固めることができたのである。

[池 享]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「厳島の戦い」の意味・わかりやすい解説

厳島の戦い
いつくしまのたたかい

毛利元就が,天文 24 (1555) 年 10月1日,主君大内義隆を殺した陶晴賢を,安芸国佐伯郡厳島に襲撃して,自刃させた戦い。中国地方7ヵ国を領した守護大名大内義隆は,同 20 (51) 年9月1日,家臣陶晴賢に襲われて自殺した。同 24年9月,家臣毛利元就は,その仇討を名目に晴賢に対し,厳島有浦に築城し,その家臣己斐氏らに守らせた。これに対し晴賢は,兵2万余を率いて居城岩国を出発し,厳島塔ヶ岡に布陣した。元就は,山口を発して,9月末日夜半,兵数千を率いて厳島に上陸し,10月1日未明,晴賢を奇襲して,これを破り,晴賢は逃れられず自殺した。毛利氏は,この勝利によって,中国地方における不動の地位を確立した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「厳島の戦い」の解説

厳島の戦い
いつくしまのたたかい

1555年,毛利元就 (もとなり) が陶晴賢 (すえはるかた) を安芸 (あき) (広島県)厳島で破った戦い
それまで晴賢は主君大内義隆を殺し権勢をふるっていたが,毛利氏はこの戦いに勝利し,周防 (すおう) ・長門2国(山口県)を領有した。

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