改訂新版 世界大百科事典 「吉川氏」の意味・わかりやすい解説
吉川氏 (きっかわうじ)
駿河出身の中世武家。姓は藤原,南家武智麻呂の四男乙麻呂の後裔。乙麻呂11代の孫維清は,駿河国入江に住して入江氏を称す。吉川氏の始祖経義は,維清の玄孫で入江の吉川の地に住し,はじめて姓を吉河(または吉香)と称し,源頼朝に従属した。朝経のとき播磨国福井荘を充行われた。経光は承久の乱で北条氏に属したが,1221年(承久3)6月の宇治橋の合戦の功により安芸国大朝荘(広島県山県郡)の地頭職に補任された。その子経高は1313年(正和2)駿河国入江荘吉川邑より大朝荘に下向した。吉川氏5代の経高が大朝荘に移住してから,17代の広家が1591年(天正19)に出雲富田に移住するまで,13代,278年間にわたって吉川氏は大朝に居住した。経高は当地に駿河丸城を築き本拠地としたが,経見のころには小倉山城に本拠を移したといわれている。以後1550年(天文19)に元春が日野山城に入城するまで,小倉山城は安芸吉川氏の本拠となった。南北朝時代においては,およそ惣領家は足利氏に属しているが,庶家のうちには南朝方に荷担するものもあった。経見のころに吉川氏の領域はようやく拡大され,安芸・石見の諸所領を有している。経基は応仁の乱で細川方として活躍し“鬼吉川”と称された。経基のころに吉川氏は山県郡の北東,可愛(えの)川流域地方の大半を包括するようになった。経基はまた文学を愛好し,禅学にも精通していた。1508年(永正5)の大内義興上洛の際には国経も随従し,船岡山合戦では元経とともに活躍した。15,17年の武田元繁の山県郡侵入に際して,元経は毛利元就らと協力してこれを破った。40,41年の尼子晴久の安芸侵入の際に興経は尼子方として活躍しており,惨敗した尼子軍は興経の援護をうけて潰走した。ところで毛利元就は,一部の吉川氏老臣を抱きこんで家中を分裂させると,47年興経を隠居という名目で強引に当主の座から引きずりおろし,元就の次男元春にその跡を継がせた。そして50年興経およびその子千法師を殺害した。吉川元春は弟小早川隆景とともに毛利両川といわれ,宗家毛利氏をたすけた。広家は関ヶ原の戦の後,宗家毛利氏の領土保全のために奔走した。
執筆者:外園 豊基
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報